六町の有力者としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 六町の有力者としての意味・解説 

六町の有力者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:26 UTC 版)

川端道喜」の記事における「六町の有力者として」の解説

餅屋渡辺として創業した川端道喜は、皇室との関係を強化する中で様々な特権獲得していく。応仁の乱後室町幕府統治能力低下によって、皇居警護という幕府重要な役目を果たすことが困難になってきた。宮廷側から幕府に対してしばしば警備体制強化要求するものの、幕府側の対応は不十分で実効性欠け業を煮やした宮廷自衛策立てていくようになった宮廷近衛家など公家から警備要員徴発したり、皇居四方を堀で囲む防御策強化図った。しかし公家たちの経済力低下していて重い賦課には耐えられないそのような情勢下、成長してきた皇居近く町組六町存在注目するようになってきた。しかし戦国時代当時六町住民たちに例えばかつての荘園領主のように、賦課として皇居警護等の役を負わせるのは無理であった。そこで宮廷側としては六町引き込むために優遇措置講じるようになった前述のように六町公家町衆との混住地として発展していた。町衆たちは自然と近所公家たちとの親交深めていく。公家との親交深めていく中で、六町衆たちは天皇付与する称号特権などを獲得しやすくなっていく。餅屋川端道喜六町町衆の中で最も成功裡天皇付与する特権獲得し、名誉を得ていった一人であった。 後に出家して道喜を名乗る渡辺彌七郎は、山科言継、言経親子始めとして公家武士たちとの親交深めていく。彌七郎はこのような交流生かして正親町天皇上臈局の被官人となることに成功する。そして元亀3年1572年)には居座敷地子役、諸役免除特権認められた。つまり領主地主から賦課されていた地子銭免除、そして諸役免除、つまり免税各種臨時賦課等の免除特権与えられた。 与えられ特権に対して六町住民たちは皇居警護皇居を巡る堀の普請役を担うようになった六町有力者となった初代道喜と又七親子は、天正5年1577年)、皇居修理工事主導した天正5年1577年12月織田信長から京都所司代任命されていた村井貞勝は、道喜親子に対して禁裏修理作事奉行としての働き賞して改め諸役免除特権承認した。この禁裏修理作事奉行としての活躍による諸役免除特権は、秀吉政権下の天正12年1584年)、やはり京都所司代勤めていた前田玄以名で追認されている。 川端道喜には秀吉政権下、六町宛に出され地子免除の朱印状などが遺されているが、これは六町の有力者として皇居修復作事奉行勤めた川端道喜ところに六町宛の書状が遺されたためと考えられている。戦国時代から織豊政権下にかけて、宮廷六町とは連携深めていき、一種連合体構成していたと推測される歴史学者朝尾直弘は、川端道喜代表される町衆皇室との関係を「案外、ひとつの家族のように親し感情があったのでは」としている。 こうして皇室との深い関係を作り上げた初代川端道喜は、天正20年1592年)に亡くなった際、後陽成天皇から「南無阿弥陀仏」の宸筆贈られた。

※この「六町の有力者として」の解説は、「川端道喜」の解説の一部です。
「六町の有力者として」を含む「川端道喜」の記事については、「川端道喜」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「六町の有力者として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「六町の有力者として」の関連用語

1
川端道喜 百科事典
6% |||||

六町の有力者としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



六町の有力者としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの川端道喜 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS