六町の有力者として
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餅屋渡辺として創業した川端道喜は、皇室との関係を強化する中で様々な特権を獲得していく。応仁の乱後、室町幕府の統治能力の低下によって、皇居の警護という幕府の重要な役目を果たすことが困難になってきた。宮廷側から幕府に対してしばしば警備体制の強化を要求するものの、幕府側の対応は不十分で実効性に欠け、業を煮やした宮廷は自衛策を立てていくようになった。 宮廷は近衛家など公家から警備要員を徴発したり、皇居の四方を堀で囲む防御策の強化を図った。しかし公家たちの経済力も低下していて重い賦課には耐えられない。そのような情勢下、成長してきた皇居近くの町組、六町の存在に注目するようになってきた。しかし戦国時代の当時、六町の住民たちに例えばかつての荘園領主のように、賦課として皇居の警護等の役を負わせるのは無理であった。そこで宮廷側としては六町を引き込むために優遇措置を講じるようになった。 前述のように六町は公家と町衆との混住地として発展していた。町衆たちは自然と近所の公家たちとの親交を深めていく。公家との親交を深めていく中で、六町衆たちは天皇が付与する称号、特権などを獲得しやすくなっていく。餅屋の川端道喜は六町の町衆の中で最も成功裡に天皇が付与する特権を獲得し、名誉を得ていった一人であった。 後に出家して道喜を名乗る渡辺彌七郎は、山科言継、言経親子を始めとして公家、武士たちとの親交を深めていく。彌七郎はこのような交流を生かして正親町天皇上臈局の被官人となることに成功する。そして元亀3年(1572年)には居座敷地子役、諸役免除の特権を認められた。つまり領主、地主から賦課されていた地子銭の免除、そして諸役の免除、つまり免税、各種の臨時賦課等の免除の特権を与えられた。 与えられた特権に対して、六町の住民たちは皇居の警護、皇居を巡る堀の普請役を担うようになった。六町の有力者となった初代道喜と又七親子は、天正5年(1577年)、皇居の修理工事を主導した。天正5年(1577年)12月、織田信長から京都所司代に任命されていた村井貞勝は、道喜親子に対して禁裏修理の作事奉行としての働きを賞して、改めて諸役免除の特権を承認した。この禁裏修理の作事奉行としての活躍による諸役免除の特権は、秀吉政権下の天正12年(1584年)、やはり京都所司代を勤めていた前田玄以名で追認されている。 川端道喜には秀吉政権下、六町宛に出された地子免除の朱印状などが遺されているが、これは六町の有力者として皇居修復の作事奉行を勤めた川端道喜のところに、六町宛の書状が遺されたためと考えられている。戦国時代から織豊政権下にかけて、宮廷と六町とは連携を深めていき、一種の連合体を構成していたと推測される。歴史学者の朝尾直弘は、川端道喜に代表される町衆と皇室との関係を「案外、ひとつの家族のように親しい感情があったのでは」としている。 こうして皇室との深い関係を作り上げた初代川端道喜は、天正20年(1592年)に亡くなった際、後陽成天皇から「南無阿弥陀仏」の宸筆が贈られた。
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