元、夏の勢力と戦う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:10 UTC 版)
1367年10月、徐達に従い、北伐に参加した。徐達に対し「漢の高祖が項羽と戦っている最中、山東で彭越が項羽軍の側背を襲った。今度の戦いは山東の平定から始めるべきだ」と言った。11月、沂州、青州を攻略した。12月、莱陽を攻略した。元の丞相・也速が援軍にやってきたので、傅友徳は騎兵で敵を誘引し、伏兵で敵軍を破った。 1368年(洪武元年)2月、東昌を攻略した。3月に汴、4月に洛を攻略し、各地の山寨を占拠した。福昌山寨を攻略した際、元の右丞・潘瑪勒を降した。5月、凌青、黒山の塞を攻略した。7月、渡河して薛顕と共に衛輝、彰徳を攻略し、臨清に至り、捕らえていた元の武将・李宝臣、都事の張処仁を道案内として用いた。陸路で徳州、滄州を攻略した。8月、元の首都・大都は既に攻略されたが、さらに北方の様子を調べるために傅友徳は盧溝橋を守った。大同を攻略した後、9月に保定、真定へ戻り、定州を守った。12月、山西を攻め、太原を攻略した。ココ・テムルが自ら大軍を率いて攻めてきた。傅友徳は50騎を率いてココ・テムルの陣営に夜襲を仕掛けた。ココ・テムル軍は逃げ出し、土門関まで追撃した。その結果、多くの捕虜や軍馬を得た。薛顕と共に賀宗哲を石州で破った。 1369年(洪武2年)1月、朔州の守りについた。3月、鳳州を攻略し、指揮の張能に守りを任せた。5月、徐達と合流して慶陽の東側を包囲した。7月、徐達、馮勝と協議し、薛顕と共に霊州に駐屯して援軍を断ったため、慶陽を攻略することができた。賀宗哲が六盤山に逃れたことを知った徐達は、顧時、薛顕と共に追撃を命じた。12月、帰還し、恩賞として白金文綺を賜った。 1370年(洪武3年)4月、徐達に従い、ココ・テムルを破った。5月、前鋒として夏国に向かい、略陽関を奪った。さらに漢中を攻略した。しかし後続が続かず、西安へ帰還した。7月、夏の武将・呉友仁が漢中へ攻め込んだ。傅友徳は3千騎を率いて救援に駆けつけ、夜襲で木槽関、斗山寨、門山塞を攻めた。命令して兵士に10の篝火を持たせ、山上で布を燃やさせた。これを見た敵軍は驚き、逃走した。11月、論功により、開国輔運推誠宣力武臣を授けられ、栄禄大夫、柱国、同知大都督府事となり、潁川侯に封ぜられ、食禄1千5百石を賜った。
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