個人雑誌『他山の石』
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以後の悠々はその死に至るまでの8年間を愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)にて「名古屋読書会」の主宰者として過ごした。彼自身が紹介したいと考えた洋書を翻訳しその抄訳を会誌で頒布するという仕組みであり、悠々の言論活動は『他山の石』と題された会誌の巻頭言およびコラム「緩急車」に限られることとなった。1926年(大正15年)に聖山閣からバートランド・ラッセルの『科学の未来と文明破壊の脅威』(原著 Icarus, or the Future of Science, 1924 の邦訳)を本名(政次)で出したほか、抄訳紹介にはたとえばハーバート・ジョージ・ウェルズ、ハロルド・ラスキ、ポール・ヴァレリー、ポール・アインツィヒ(英語版)などが含まれ、悠々の読書範囲の広さをうかがわせる(名古屋の丸善書店では悠々は最上顧客だったともいう)。もっとも、これら翻訳も彼自身の執筆部分も検閲の対象であったから、○○○、×××といった伏字や白紙化されたページが『他山の石』を埋めることもしばしばであった。 1941年(昭和16年)9月10日、太平洋戦争開戦を3ヶ月後にひかえて桐生悠々は喉頭癌のため68歳で逝去。その直前、死期を悟った悠々は『他山の石』廃刊の挨拶を作成したが、これもまた数年後の日本の敗戦に対する正確な予言となっていた。(下記中公文庫版p.264より引用。句読点は引用者、一部かな書き化) (前略)さて小生『他山の石』を発行して以来ここに八個年超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が(中略)時たまたま小生の痼疾咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざるやうに相成、やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。 昭和十六年九月 日 他山の石発行者 桐生政次」
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