侯国成立以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 00:38 UTC 版)
1712年、クリスチャン・ルートヴィヒの子であるフリードリヒ・アントン・ウルリヒ (de:Friedrich Anton Ulrich (Waldeck-Pyrmont)) は、皇帝カール6世によってヴァルデックとピルモントの侯爵(Fürst)に叙せられた。2代侯のカール・アウグスト・フリードリヒ (de:Karl August Friedrich (Waldeck-Pyrmont)) は、オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)においてオランダ(ネーデルラント連邦共和国)軍を率いた軍人として知られている。七年戦争中の1760年には、領内のコルバッハにおいてイギリス軍(およびその同盟国軍)とフランス軍の戦闘が行われた(コルバッハの戦い)。 3代侯フリードリヒ・カール・アウグスト (de:Friedrich Karl August (Waldeck-Pyrmont)) は、オランダの軍人として働くとともに、アメリカ独立戦争ではイギリス側に侯国の兵士を派遣した(#軍事節参照)。1807年、ヴァルデック侯国はライン同盟に加わった。なお、1805年にフリードリヒ・カール・アウグストは弟のゲオルク1世にピルモントを分与しているが、フリードリヒ・カール・アウグストが1812年に男子なく没したため、結局ゲオルク1世がヴァルデック侯を継いだ。ゲオルク1世の子であるゲオルク2世は1814年に憲法を制定したが、この中で規定されたヴァルデック領とピルモント領の地位については紛争を引き起こした。 1815年のウィーン会議によって、ヴァルデック侯国の独立の侯国としての地位が確認され、ドイツ連邦に加盟した。1845年のゲオルク2世死後、幼少のゲオルク・ヴィクトルの摂政となったのが、ゲオルク・ヴィクトルの母エンマである。エンマはプロイセンと接近するとともに、1848年革命後の領邦議会からの摂政退任要求を突っぱねるなど、最高権力者として侯国を動かした。 1868年の普墺戦争以後、侯国は10年ごとの契約によってプロイセン王国に統治を委ねることとなり、以後は実質的にプロイセン王国の統治下となった。法的には独立の地位を維持しており、小規模な侯国にとっては行政のためのコスト軽減に役立った。1871年にはドイツ帝国の構成国となった。 1918年のドイツ革命によって君主制が廃止されると、ヴァルデック侯フリードリヒも退位して侯国も消滅し、ヴァルデック=ピルモント自由州となった。なお、10年ごとのプロイセンとの契約は受け継がれており、1929年にプロイセン自由州の一部となった。 なお、侯国の黒・赤・金の国旗は、ヴァイマル共和国およびドイツ連邦共和国の国旗(ドイツの国旗参照)と同一のデザインである。
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