供木運動とは? わかりやすく解説

供木運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:36 UTC 版)

平和大通り」の記事における「供木運動」の解説

1955年昭和30年発売した大田洋子小説夕凪の街と人と―一九五三年の実態』の中で、登場人物一人当時復興事業語っている。 なんの用があって作った知りませんが、あの広い幅を持った、百メートル道路みてごらんなさい。昼なお暗いほど、雑草うずもれて人通りもろくにありはしません。(中略)。ここは公園にするからどいてくれ、百メーター道にするからどいてくれと云って追いはらったんですからね。(中略)。市民の方でそれを愛してませんから、も花も、木も育ちはしません。 — 夕凪の街と人平和大通り平和公園建設のため半ば強制的に立ち退き迫られ住民にとって、この通りは相変わらず批判の的であった。これが顕著となったのが1955年広島市長選挙で、復興事業進めていた現職浜井信三革新)に対し対抗馬渡辺忠雄保守)は公約計画再検討掲げ「百メートル道路幅員半分にし住宅建設する」とぶち上げた結果1947年から市長2期務めた浜井は落選渡辺新し市長就任した渡辺公約通り進めようとしたが、市の幹部道路担当者説得され頓挫結果平和大通りそのまま工事進んでいった。 平和大通り改修諦めた渡辺次に行ったのが「供木運動」である。これは平和大通りグリーンベルト部分緑化キャンペーンであり、県内問わず全国レベル植樹呼びかけた。この呼びかけに「廃墟の街に緑を」と世界レベル応じてもらうことができ、1957年昭和32年)から1958年昭和33年)にかけて行われ多くの木が植えられた。広島市の公式発表によれば1957年高木約1,200本、1958年高木約1,300本、その他低木多数植えられた。 こうして当初歓迎されなかったどころ存続の危機さえあった100m道路は、供木運動を経て緑化進み広島国際和文都市として成長していく中で象徴一つとなっていった。

※この「供木運動」の解説は、「平和大通り」の解説の一部です。
「供木運動」を含む「平和大通り」の記事については、「平和大通り」の概要を参照ください。

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