供木運動
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1955年(昭和30年)発売した大田洋子の小説『夕凪の街と人と―一九五三年の実態』の中で、登場人物の一人が当時の復興事業を語っている。 なんの用があって作ったか知りませんが、あの広い幅を持った、百メートル道路をみてごらんなさい。昼なお暗いほど、雑草にうずもれて、人通りもろくにありはしません。(中略)。ここは公園にするからどいてくれ、百メーター道にするからどいてくれと云って追いはらったんですからね。(中略)。市民の方でそれを愛していませんから、草も花も、木も育ちはしません。 — 夕凪の街と人と 平和大通りや平和公園建設のため半ば強制的に立ち退きを迫られた住民にとって、この通りは相変わらず批判の的であった。これが顕著となったのが1955年広島市長選挙で、復興事業を進めていた現職の浜井信三(革新)に対し、対抗馬渡辺忠雄(保守)は公約に計画再検討を掲げ「百メートル道路の幅員を半分にし住宅を建設する」とぶち上げた。結果、1947年から市長を2期務めた浜井は落選、渡辺が新しい市長に就任した。渡辺は公約通り進めようとしたが、市の幹部や道路担当者に説得され頓挫、結果平和大通りはそのまま工事が進んでいった。 平和大通り改修を諦めた渡辺が次に行ったのが「供木運動」である。これは平和大通りのグリーンベルト部分の緑化キャンペーンであり、県内を問わず全国レベルで植樹を呼びかけた。この呼びかけに「廃墟の街に緑を」と世界レベルで応じてもらうことができ、1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて行われ、多くの木が植えられた。広島市の公式発表によれば1957年に高木約1,200本、1958年に高木約1,300本、その他低木も多数植えられた。 こうして当初は歓迎されなかったどころか存続の危機さえあった100m道路は、供木運動を経て緑化が進み広島が国際平和文化都市として成長していく中で象徴の一つとなっていった。
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