伝統的な教育 vs. 自由教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 11:43 UTC 版)
「エリザ・ルモニエ」の記事における「伝統的な教育 vs. 自由教育」の解説
父を早くに亡くし(1817年、エリザが12歳のとき)、母と祖母に育てられた。女子寄宿学校で初等教育を受け、読み書き、文法のほか、算数、地理、歴史、絵画の初歩を学んだ。当時の女子教育としてはかなり高度なものであったが、11歳から15歳までカストル (タルヌ県) に住む従妹のサン=シール・ド・バローのもとに預けられ、さらに学業を続けた。ド・バロー夫人による自由な教育は、エリザの心身の発達に大きな影響を及ぼした。 エリザの兄たちはコレージュ・ド・ソレーズ(ソレーズ修道院(フランス語版))に学んだ。カトリック教会最古の修道会であるベネディクト会が、プロテスタントの牙城であったピュイローラン・アカデミー(モントーバン・ピュイローラン・アカデミー(フランス語版))(1598年に設立、ナントの勅令の廃止により1685年に廃校)に対抗するために1682年に設立した学校であり、1776年にはフランス王立学校12校の一つであった。1791年以降にフェルリュス兄弟(フランソワ、次いでレイモン=ドミニク)が経営を引き継ぐと、優れた教師を集め、ヴォルテールらの啓蒙思想に基づいて自由な精神を育むライック(非宗教的)な学校として知られるようになった。カストルからソレーズに戻ったエリザは、こうした環境でフェルリュス兄弟の娘たちと知り合い、フェルリュス家のサロンに出入りする政治家、実業家、哲学者、芸術家らの活動から大きな影響を受けた。 1814年に第一帝政が崩壊し王政が復古すると、1820年に王党派がコレージュ・ド・ソレーズを「規律のない、無宗教の」学校、反体制的な学校であると訴え、経営権を奪回した。実際、40人の教員のうち王党派は6人であったが、この結果、共和派の教員が多数辞任した。
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