京劇の歴史
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清の乾隆55年(1790年)、中国南方の4つの徽劇班「三慶班」「四喜班」「和春班」「春台班」(四大徽班)陸続と北京に来訪。まず「二黄」声腔を持ち味とする「三慶班」が北京で人気を博し、それに続いて「四喜班」「和春班」「春台班」が北京に進出した。北京には「秦腔」という演劇があったが安徽省の劇団に人気を奪われる形となり、両者の融合が自然と行われた。 道光8年(1828年)前後、湖北劇団が北京に進出し漢調(楚調・西皮調)を特色とした演劇は安徽省発祥の劇団にも影響を与え、独自の演劇へと発展して行った。このように北京の外の劇団が担ってきた北京の演劇であり上演は南方方言で行われてきたが、北京での人気を得るに従い北京語での演劇の需要が高まり、北京語での演劇が考案、上演されるようになった。この時代には道光時代鼎甲と呼ばれる3人に名優の程長庚・張二奎・余三勝が活躍した。 その後は太平天国の乱などで南方の政情が不安になると南方の劇団が北京に集まり、さらに西太后の手厚い庇護を受け北京独自の演劇として一層の発展、熟成がなされた。この時代には同治帝・光緒帝の2帝の治世の当たり「同光十三絶」と称される13人の名優、すなわち郝蘭田・張勝奎・梅巧玲・劉趕三・余紫雲・程長庚・徐小香・時小福・楊鳴玉・盧勝奎・朱蓮芬・譚鑫培・楊月楼の13人が大いに京劇を盛り上げた。 清末になると、「四大名旦(4大名女形)」と呼ばれた梅蘭芳・程硯秋・尚小雲・荀慧生の4人の俳優が上海での近代演劇を取り入れた演劇に触発されながら、京劇に一層の洗練がなされた。この4人は独自の流派を作るほど、京劇に革命をもたらした。また梅蘭芳は初めて京劇の海外公演を日本で行った。 近代において一番京劇に悪影響を与えたのが文化大革命による弾圧で幹部俳優が排斥されたり、古典劇の上演が禁止されるなど停滞した。この弾圧は江青が現代劇の俳優出身で、京劇を目の敵にしていた事が原因と言われる。その後、中国の伝統文化として見直され「国劇」と呼ばれるように至った。 1990年には「京劇200年」を祝す演劇祭が北京で各地の劇団を招いて開催された。
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