享保 - 寛政とは? わかりやすく解説

享保 - 寛政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:16 UTC 版)

歌舞伎」の記事における「享保 - 寛政」の解説

歌舞伎舞台発展し始めるのは享保年間からである。享保3年1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎舞台屋根つけられて全式になる。これにより後年盛んになる宙乗り暗闇演出などが可能になった。また、享保年間には花道演技する場所として使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め廻り舞台もおそらくこの時期使われ始めた宝暦年間大阪では並木正三廻り舞台工夫し現在のような地下で回す形にするなど、舞台機構大胆な開発工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間駆使した演出が行われた。これらの工夫江戸で取り入れられた。こうして歌舞伎花道によってほかの演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し廻り舞台によって場面転換を図る高度な演劇へと進化した作品面では趣向取り狂言取りの手法が18世紀から本格化した。これらは17世紀にもすでに行われていたが、17世紀時点では特定の役者過去評判得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体趣向取り狂言取り対象になったのである。これは17世紀狂言役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し18世紀になると筋や演出面白さ求められるようになったことによるまた、このころになると人形浄瑠璃からも趣向取り狂言取りが行われるようになり、義太夫狂言誕生した。すなわち歌舞伎人形浄瑠璃影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃歌舞伎影響受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎人形浄瑠璃歌舞伎」という図式であった延享年間にはいわゆる三大歌舞伎書かれた。これらはいずれ人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての初演それぞれ1746年1747年1748年である。 またそれから少しさかのぼ1731年には瀬川菊之丞 (初代)が能の道成寺ヒント得た無間の鐘新道成寺』で成功をおさめ、これにより舞踊新時代幕開き告げたその後道成寺モチーフにした舞踊いくつも作られ1753年には今日でも上演される京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている。なお当時江戸はほかのどの土地にも増して舞踊好まれており、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったはいずれ江戸の地であった1759年並木正三が『大坂神事揃おおさかまつりぞろえ)』で「愛想尽かし」を確立。これは女が諸般の事情心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。その後、男が女を殺す場面につながることが多い。

※この「享保 - 寛政」の解説は、「歌舞伎」の解説の一部です。
「享保 - 寛政」を含む「歌舞伎」の記事については、「歌舞伎」の概要を参照ください。

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