享保 - 寛政
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歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである。享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる。これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった。また、享保年間には花道が演技する場所として使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた。宝暦年間の大阪では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にするなど、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた。これらの工夫は江戸でも取り入れられた。こうして歌舞伎は花道によってほかの演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと進化した。 作品面では趣向取り・狂言取りの手法が18世紀から本格化した。これらは17世紀にもすでに行われていたが、17世紀時点では特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になったのである。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる。 また、このころになると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり、義太夫狂言が誕生した。すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった。 延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ1746年、1747年、1748年である。 またそれから少しさかのぼる1731年には瀬川菊之丞 (初代)が能の道成寺にヒントを得た『無間の鐘新道成寺』で成功をおさめ、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げた。その後、道成寺をモチーフにした舞踊がいくつも作られ、1753年には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている。なお当時の江戸はほかのどの土地にも増して舞踊が好まれており、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった。 1759年、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』で「愛想尽かし」を確立。これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。その後、男が女を殺す場面につながることが多い。
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