二度目の結婚・出産、皇帝との別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/06 06:05 UTC 版)
「アンナ・ナホフスキー」の記事における「二度目の結婚・出産、皇帝との別れ」の解説
皇帝の愛人でありながら、ビアラ(現ポーランド領)の市長の息子で帝国・王国南部鉄道会社の吏員のフランツ・ナホフスキーの愛人になった。アンナがナホフスキーの子を妊娠すると、フランツ・ヨーゼフは彼女の結婚に同意した。結婚後ナホフスキーはたびたびウィーンから離れた遠隔地へ転勤させられるようになった。皇帝は2人の関係を続けるのにさらに都合が良いように、1883年の秋、アンナに5万グルデンという大金を渡し、彼女はシェーンブルン宮殿の真向かいに邸宅を購入した。彼は大抵朝5時以前に彼女の邸を訪れたが、1時間以上いることは滅多になかった。アンナは何度か流産した後、1885年7月29日に女児ヘレネ(アルバン・ベルクの妻)を出産した。 2人の関係は長年続いたが、1886年になるとフランツ・ヨーゼフは、エリーザベト皇后から紹介された舞台女優カタリーナ・シュラットに心が移り始めていった。アンナは絶望しシェーンブルン宮殿の庭園で2人がいる所に忍んできた。これは皇帝を立腹させたが、ひるまず非難し釈明を求めた。彼は変心を否定したが、フランツ・ヨーゼフの訪れは間遠になっていった。 しかし1889年1月30日、ルドルフ皇太子が情死事件を起こしたとき、皇帝の精神的支えとなったのはカタリーナだった。これが皇帝にアンナとの別れを決心させ、事件後間もなくアンナは宮内庁長官フリードリヒ・フォン・マイル男爵によって王宮内の事務所に呼ばれ、彼からフランツ・ヨーゼフの2人の関係を終わらせたいという意向を伝えられた。彼女はこのような形で別れを告げられる事に納得いかず、皇帝との面会を男爵に要望するが拒絶され、結局大金を新たにもらうことで示談に応じた。1889年の3月14日、以降皇帝との出会いに関していついかなる時も他言しない事を文書で確約した。しかし1889年にアンナが男児フランツ・ヨーゼフを出産すると、皇帝は彼の息子と思われるこの同名の男児に自分の若い頃の肖像画が彫り込まれた時計を贈った。
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