二度目の経営危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:05 UTC 版)
1929年(昭和4年)に発生した世界恐慌の影響により、日本国内においても国家主導で消費節約が進められ、さらに同年秋の大豊作に起因して米価が暴落するなど悪条件が重なり、昭和恐慌と呼ばれる経済不況に突入した。 豊橋線の建設や子会社設立など積極的に設備投資を行った愛電は、営業成績も大正年間末期まで好調であったが、昭和初期には再び停滞に転じた。さらに昭和恐慌の影響によって1929年(昭和4年)をピークに業績が急激に悪化し、1931年(昭和6年)度には営業収入がピーク比で約25 %減少、また積極的な財政支出が災いして借入金の利子支払いが大きな負担となりつつあった。同時に最盛期は年7 %であった株主配当も年々減少し、1932年(昭和7年)下半期においては5 %に低下した。 この情勢下において、愛電は名岐鉄道(1930年9月に旧・名古屋鉄道より改称、以下「名岐」と記す)や乗合バス各社と提携し旅客誘致に努め、また車内でビールを提供するイベント列車「ビール列車」を常滑線神宮前 - 大野町間において運行するなど利用者増加に尽力した。しかし、これらの政策も業績を立て直すには至らず、1931年(昭和6年)6月より従業員の給与削減を実施し、さらに翌1932年(昭和7年)11月には従業員の解雇による人員整理を断行するなど、経営は危機的状況に陥った。 昭和恐慌は1933年(昭和8年)頃に終息し、日本国内の景気回復とともに愛電の営業成績も好転、同年4月をもって給与削減は撤回され、危機的状況を脱した。
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