二宮時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 08:37 UTC 版)
1941年(昭和16年)に、戦争のため、母の実家の別荘がある神奈川県中郡二宮町に疎開。大学在学中からフランス文学に傾倒していた梅田は、1943年(昭和18年)「三田文学」に、当時の編集者和木清三郎から書評を書くことを薦められ、卒業論文に当時深い関心を寄せていたフランスのポピュリスト、ラビッシュについて「ラビッシュとその作品」と題する評論を書く。しかし、内容が共産主義的であるとして、当時の内務省から注意を受け、一時「三田文学」が廃刊の危機にさらされてしまう。梅田は急遽、モリエールについての論文を提出し、あやうく処分を免がれる。また、この年梅田は最初の結婚をした。 1944年(昭和19年)、慶應義塾大学大学院仏文学研究科を修了。終戦後しばらくして最初の妻と離婚し二宮在住の女性、石井喜美と再婚。1946年(昭和21年)に中央公論出版部にしばらく勤めたのち、12月から1年あまり、同県内の茶屋町で貸本屋を営む。1948年には慶應文化学院の講師に就任するが、フランス文学の教職活動と並行して、小説の執筆や、ラビッシュなどのフランス戯曲の翻訳活動を始める。1948年10月『群像』に妻の喜美をモデルにした長篇小説『五月の花』の連載を始める。
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