事故による渡船組合の解散から高岡市営の渡船へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:44 UTC 版)
「如意の渡し」の記事における「事故による渡船組合の解散から高岡市営の渡船へ」の解説
1944年(昭和19年)12月25日午前7時20分頃、鹿子浦丸が伏木より六渡寺へ向う途上にあって機関の故障により流され、六渡寺側の防波堤に衝突して転覆するという事故が発生した。この事故によって33名の旅客が救出されたものの、約40名の男女が水死した。六渡寺渡船組合は事故の責任によって同年12月27日に解散することとなった。伏木と六渡寺とを結ぶ渡船の運営は、串岡と吉久を結ぶ渡船を運営していた真木興三に継承された。 しかし、戦後の経済混乱によって渡船の運営を一個人が継続していくことが難しくなったので、1947年(昭和22年)4月より伏木と六渡寺とを結ぶ渡船は、串岡と吉久を結ぶ渡船と共に高岡市が運営することとなり、実際の業務は高岡市から伏木海陸運送へ委託された。伏木海陸運送は設備の老朽化を口実として、1949年(昭和24年)より度々高岡市に契約の解除を申し入れたが、1950年(昭和25年)に高岡市が設備更新費用として210万円を無利子で貸与したので、鋼船と木造船を1隻ずつ発註した上で、渡船の運航者として伏木港湾交通を1951年(昭和26年)2月19日に設立し、同年4月より同社が渡船事業の下請け先となった。1953年(昭和28年)9月からは免許制度の発足に伴い、伏木港湾交通が直接高岡市と契約し、その代行を担う業者となっている。 1957年(昭和32年)7月からは渡船場が移転され、以降は伏木新島と中伏木を結ぶ航路に変更された。この移転は伏木港に出入する船舶の増加と大型化によってその航路を横断する渡船の存在が危険であるとされたことによるものであった。
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