事件に関する仮説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 16:04 UTC 版)
「ベンジャミン・バサースト (外交官)」の記事における「事件に関する仮説」の解説
フィリダの弟ジョージはバサーストがケーニヒスベルクにたどり着き、そこで船に乗ったが、船がバルト海で沈没したと考えた。 『オックスフォード英国人名事典』の見解では、バサーストはクラウゼが裏切ると信じてペルレベルクから逃亡し、バルト海とスウェーデン経由で帰国しようとした道中で殺害されたという。傍証として、バサーストの錯乱に関する報告を受けたイギリス政府が事件を反ナポレオンのプロパガンダに利用せず、ウィーン会議でも追求しなかったことが挙げられている。 『ザ・スペクテイター(英語版)』1862年9月20日号ではペルレベルク近くのマクデブルク要塞(1806年よりフランスの占領下)で白骨死体が発見されたニュースを引き合いに出し、バサーストを誘拐した後、猿轡を噛ませて、馬車でそれほど遠くないマクデブルク要塞に運ぶことは「特に困難なところはない」(There was no particular difficulty)としている。 サー・ジョン・ホール(Sir John Hall)は1922年の記事でイギリス政府がバサースト失踪をフランス政府の仕業だと考えていれば、これを利用しないはずがなかったとしている。ホールの見解ではバサーストがプロイセンの秘密組織クライスト(Kleist、反フランス蜂起を計画していた組織)について知り、バサーストの精神が不安定な状態にあったため口封じで殺害されたという。クリッツィングが殺害に関わったかは定かではないが、クライストを知っていた(もしくは存在の可能性に気づいていた)。この場合、綿密な捜査が行われると、クライストの計画がフランス政府に知られる可能性があった。『オックスフォード英国人名事典』はホールの見解を「つじつまに合う」(plausible)としたが、バサーストが逃亡して道中で殺害された可能性のほうがはるかに高い(far more likely)とした。 ネヴィル・トムソン(Neville Thompson)は2002年の論文でフランスがバサーストの所持する文書を奪取するために犯行に及んだと考えるのは自然であるとし、前例として1804年10月に外交官の第2代準男爵サー・ジョージ・ラムボルド(英語版)がハンブルクで捕らえられてパリに連行され、外交文書を奪われた事例を挙げている。ただし、バサーストは失踪直前に自身の所持する文書を燃やしている。トムソンによるもう1つの仮説はバサーストが他人に知られずにコルベルクに向かう馬車に乗ったが、何らかの理由によりその道中で殺害された、というものだった。
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