九州・名古屋時代
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角田正喬は、1877年(明治10年)10月18日、群馬県人・角田徳太郎の長男として生まれた。1903年(明治36年)慶応義塾大学部理財科を卒業。卒業後はまず商社の日本綿花に入社し、上海支店に勤めた。 1910年(明治43年)以降は福澤桃介の経営する電気事業に関わった。福澤は慶應義塾創設者福澤諭吉の女婿にあたる人物で、角田から見ると慶應義塾の先輩でもある。角田はまず佐賀の電力会社九州電気に支配人代理として入社した。同社は1910年9月に発足した資本金270万円の会社で、経営陣は社長中野致明、専務伊丹弥太郎、取締役福澤桃介・松永安左エ門、取締役兼支配人田中徳次郎といった顔ぶれであった。1912年(明治45年)6月、福岡の電力会社博多電灯軌道と九州電気が合併し、九州電灯鉄道が発足する。同社では角田は支配人に昇格している。以後九州電灯鉄道は周辺事業者を次々と合併し北部九州の中核事業者に発展していくが、角田の支配人在任は短く翌1913年(大正2年)2月に辞任した。 1913年2月、角田は名古屋の電力会社名古屋電灯に転じ同社支配人に就任した。同社は1909年から福澤が株式買収に取り掛かり、筆頭株主となっていた会社である。1913年1月に福澤が常務(のち社長)となって会社の実権を握っており、福澤の推薦で角田が九州から転じて支配人に就任、社業改革にあたることになった。4年後の1917年(大正6年)12月取締役に選出、1919年(大正8年)3月支配人兼任を解かれるが、同年10月神谷卓男(元名古屋市助役)とともに常務取締役に昇った。 名古屋電灯の関係会社では、1916年(大正5年)8月電気製鋼所(大同特殊鋼の前身)が設立されると取締役に就任、次いで翌1918年(大正7年)9月木曽川開発のための新会社木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)が設立されると常務取締役に就いた。なお、木曽電気興業が京阪電気鉄道と提携して関西地方への送電を目的に1919年11月に立ち上げた大阪送電では設立時の役員には名前がない。1921年(大正10年)2月になり、大阪送電と木曽電気興業・日本水力が合併し大同電力(社長福澤桃介)が発足する。発足に先立つ1920年11月に実施された役員改選で角田は大同電力の取締役に選ばれた。
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