中華民国の反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:58 UTC 版)
蔣介石は、暫定協定案を知った時の心情を「不安と怒りが心のなかを激しく交錯した」「我々の国は、この絶体絶命の危機から生還することができるだろうか」と日記に記した。そして、ワシントンの胡適大使に「アメリカを日本と妥協させてはならない。それは中国の死を意味する」と厳命した。 また、蔣介石は重慶にいた顧問のオーウェン・ラティモアに暫定協定案反対を依頼した。ラティモアからは、日本への経済制裁解除は、中国にとって日本の軍事的優位を危険なほど増大させ、いかなる暫定協定案も中国の対米信頼に対して悪影響を及ぼすもので、このときに見捨てられたとする感情は過去の支持や将来の援助の増額によっても償いえるかどうか疑問である、という報告がなされた。 蔣介石は宋子文に対しても、11月25日にヘンリー・スティムソン陸軍長官とフランク・ノックス海軍長官に伝えるよう指示して、対日制裁の緩和があれば、中国人民はみな犠牲にされたと思うだろうし、こうして世界におけるもっとも悲劇的な時代が開かれ、中国陸軍は崩壊し、日本の計画は遂行され、ひとり中国にとっての損失に留まらない、との電報を寄せた。 ハルはこのような中国の反対攻勢に憤慨し、「蔣介石が、我が国の閣僚数名、国務省以外の政府機関の職員多数等に対し、おびただしい数の電報メッセージを送り付け、時としては大統領すら無視し、問題の真相に接していないにもかかわらず、微妙かつ重大な問題にまで介入することがあった」(英国大使ハリファックス卿に対して)と非難していた。 暫定協定案が日本に提示されなかったのは中国の猛烈な反対があったためという指摘もあるが、ハルは中国の抗議をさほど重視していなかった。また、モーゲンソー財務長官によれば、ルーズベルト大統領が中国の反対に対して「自分が彼らを黙らせてやる」とハルに向かって発言していたという。
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