中国書記官の人物像
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当該一等書記官は、公的には中国・河南大学日本語科を1989年に卒業したとされる。一方、自身のホームページでは最終学歴を「人民解放軍・外国語学校」としている。この学校は中国人民解放軍の傘下にあり、「中国人民解放軍総参謀部第三部」(外国の無線を傍受するといったシギントを行う機関)の要員を育成するための学校であるといわれ、かつては書記官の実父(少将)が長を務めていたという。 警視庁公安部は、実際にはこの後一等書記官は「中国人民解放軍総参謀部第二部」に所属したとみている。「中国人民解放軍総参謀部第二部」は、人民解放軍の情報活動を担当する部門で、海外に要員を派遣して情報源やスパイ網を構築している。 2007年(平成19年)8月に二等書記官(後に一等書記官に昇進して通商を担当)として中国駐日大使館に赴任する前、肩書を次々に替えながら、少なくとも計4回に渡って訪日した。 1993年(平成5年)に「河南省洛陽市職員」として、同市と友好都市の福島県須賀川市に、「福島県須賀川市日中友好協会」の国際交流員として訪日した。 1995年(平成7年)~1997年(平成9年)には、福島大学大学院で学んだ。 中国政府のシンクタンクである「中国社会科学院」の日本研究所副主任となり、1999年(平成11年)4月に来日し、松下政経塾の特別塾生となった。 2003年(平成15年)頃に訪日し、東京大学東洋文化研究所などで学んだ。 当該一等書記官を知る日本人は「日本人かと思うくらい日本語が堪能だった」という。 当該一等書記官は通商担当であり、防衛関係者以外にも政財界に広く人脈を張り巡らせていた。国会議員に「TPPへ日本が参加しないのであれば、人民解放軍の力でレアアースの輸出を保障するほか、食糧危機が起きたら100万トンの米を輸出できる仕組みを作れる」という趣旨のことを国会議員に働きかけるなど、活発に動いていたという。妻も外務省幹部の運営するシンクタンクに出入りしていたほか、夫とともに政財界の大物も通う西麻布の高級寿司店に出現しており、後に夫と「同業者」なのではと考えられた。
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