中国共産党軍によるチベット侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 13:47 UTC 版)
「チベット動乱」の記事における「中国共産党軍によるチベット侵攻」の解説
詳細は「中華人民共和国によるチベット併合」および「チャムドの戦い」を参照 「人民解放軍」(=中国共産党の軍隊)のチベット侵入以前、チベットの国土のうち、チベット政府「ガンデンポタン」が実効支配していたのはガリ地方・ツァン地方・ウー地方・カム地方の西部・チャンタン高原などであり、アムド地方の全域およびカム地方の東部は中華民国の地方政権の支配下にあった(アムド地方は青海省および甘粛省の一部、カム地方の東部は西康省および雲南省の一部などに分割されていた。詳細は雍正のチベット分割などを参照)。 1949年、国共内戦で中華民国に勝利した中国共産党が中国を掌握する。中華民国国民党政府がアムド地方、カム地方の北部・東部に設置していた青海省、西康省等が中国の支配下に入る。チベット政府は中国政府とつながりのある全ての中国人を国外追放し、国民党と共産党の双方から非難されるが、同地のチベット人、モンゴル人の抵抗が1950年代初頭まで続く。 1949年6月11日にパンチェン・ラマ10世がパンチェン・ラマ9世の転生として中国国民党政府の承認を受け即位した。 中国共産党政府は翌1950年1月には新中国政府によるチベット駐留を要求した。1950年6月、イギリス政府は庶民院で「中国のチベットに対する宗主権を認める準備は出来ている、しかしチベットは自治権を尊重されていることだけは理解してほしい」と表明したが、1950年10月、中国人民解放軍は「西蔵和平解放」と称して、ダライラマ政権が実効支配していたチベットのカムド地方の西部に侵攻し、チャムドを占領。ドカム総督(ド・チー)のラル・ケサンワンドゥ、ンガプー・ンガワン・ジクメらが捕虜となる(中国名「昌都戦役」)。 1951年、中国人民解放軍が新疆方面、青海方面、チャムドの3方面からラサに向けて進軍、無血入城し、これによりチベット全土を制圧する。
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