上京、トキワ荘へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:26 UTC 版)
1954年(昭和29年)6月10日、藤本が安孫子を誘う形で二人は上京。後がない藤本と違って、安定したサラリーマン生活がある安孫子は新聞社に未練があったと語っている。最初に二人が暮らしたのは東京都江東区森下にある安孫子の親戚の家の2畳の和室であった。東京ではトキワ荘(豊島区)に住んでいた寺田ヒロオ、ならびに同じ寺田の弟分である坂本三郎、森安なおや、永田竹丸、と新進児童漫画家のグループである「新漫画党」を結成。この頃描いた『探偵王』の読みきり・『宇宙鉱脈』から、ペンネームを「足塚不二雄」から二人の名前を取って「藤子不二雄」に変更した。 やがて手塚治虫がトキワ荘を出たため、藤子不二雄の二人は手塚がいた部屋の後釜に納まる。その時、二人は憧れの手塚治虫がいたトキワ荘14号室で漫画が描けることに喜んだという。またお金のない二人のためにトキワ荘の敷金は手塚が肩代わりしており、手塚が使っていた漫画を描く机もそのままにしておいた。そのため、二人は手塚が使っていた机と同じ机で漫画を描いていた。 トキワ荘入居後、読みきり作品や新漫画党メンバーによる合作などをこなしていくうちに仕事が急増し、毎月10本の連載漫画を持つようになる。安孫子は手塚治虫の漫画を手伝うこともあった。しかし、限界を無視して仕事を引き受け過ぎたため、1955年1月、富山に一時帰省中、連載の〆切を8本落とすという大失態を演じてしまう。 以後、一時は漫画家廃業も考えたが、寺田ヒロオの勧めもあり、再びトキワ荘に戻る。約1年間は雑誌社から干されてしまうが、何とか復帰を果たす。この頃より合作ではなく、単独で描いた漫画が徐々に増えていく。また、近所のアパートの一室を借りてその部屋を仕事場とした。 漫画を描くかたわらで、当時珍しかったテレビを秋葉原で購入したり、8ミリカメラで映画を製作したりする。テレビの導入は週刊誌での連載が増えて〆切日も短くなったため、話題を知るために役に立ったといい、仕事中はいつもつけっぱなしにしていたという。 1959年(昭和34年)、小学館が創刊した『週刊少年サンデー』に「海の王子」(合作)を連載。1960年、光文社の『少年』で「シルバークロス」(安孫子)連載。1961年、トキワ荘を出る。
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