三流キネマ時代
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1931年(昭和6年)、東亜キネマは営業不振から代行会社であった東活映画社に製作が移されるが、羅門は残留する。そして後藤岱山監督の第一回作品『薩南大評定』に原と共演。ところが羅門は解散を予兆して直ぐに退社し、1932年(昭和7年)2月、大阪市の某印刷業者を出資者に、奈良県生駒郡生駒町(現在の同県生駒市)にあった月形プロダクションの跡地に創立された富国映画社に原と共に入社する。ところが、こちらも同年に間も無く解散。その後はかつてのヒット作品『南国太平記』を提げて原と共に四国地方を中心に実演の旅に出たが、同年11月、今度は宝塚キネマに入社して多数の作品で主演を務めるも奮闘は虚しく、1934年(昭和9年)1月に間も無く解散。 その後フリーとなって片岡千恵蔵プロダクション、第一映画社等の作品に出演していたが、1935年(昭和10年)2月に発足した極東キネマ甲陽撮影所へ入社する。同年、仁科熊彦監督の第一回作品『益満休之助』二部作を始め、多数の作品で主演を務めた。ところが同年、原と離婚。更に1936年(昭和11年)3月、大阪市外の古市白鳥園撮影所に撮影所を移転した際、極東キネマは分裂。羅門は残留組として甲陽映画社に加わり、数本の作品に出演するが、同社で初めてサウンド版を経験する。後に資金・興行を受け持っていた千鳥興行から独立し、共同経営者となるが、またもや経営不振で1937年(昭和12年)3月に解散。解散後、今井理輔が創立した今井映画製作所に海江田譲二(1908年 - 1986年)と共に招かれ、短期間ではあるが、数本の作品に立て続けに主演を務めた。
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