三井の水力開発計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 15:23 UTC 版)
以上のように明治時代から三井鉱山が利用してきたのは、跡津川(土第一発電所を建設)など神岡鉱山の麓を流れる高原川(神通川水系)の支流にあたる河川であったが、大正時代、第一次世界大戦が終息する頃になると高原川本流の開発にも目が向けられるようになる。その契機は逓信省による水力調査であった。 神通川を含む飛騨山脈(北アルプス)を水源とする水量豊富な富山県下の諸河川は、明治末期以降に水力発電事業が本格化するとその適地として業界の注目を浴びていた。逓信省においてもこれに着目し、臨時発電水力調査局を置いて水力調査を進めた。同局が1914年(大正3年)、時の大隈内閣により行政整理の一環として廃止されると、三井鉱山は神通川・黒部川などの調査を担当していた技師田中吉政を逓信省から迎える。田中は逓信省の了解を得た上で担当していた河川に関する調査資料を入社した三井鉱山に提供したことから、三井の水力発電計画は急速に具体化し、その後数年間にわたる水量測定、気象観測、地形測量を行って、三井鉱山は神通川水系ならびに黒部川水系において水利権(水利使用許可申請)を出願した。出願地点は、神通川水系では高原川4地点をはじめとする計5地点、黒部川水系では計5地点であった。 高原川および黒部川における水利権を出願した三井鉱山であったが、黒部川の開発は実現しなかった。これは、アメリカ資本の導入によるアルミニウム製錬を企画する高峰譲吉が水利権の競願者として現れたためである。この競願に対して政府当局は、三井鉱山に高原川、高峰側に黒部川の水利権をそれぞれ許可する意向を示したことから、電力の提供を条件として1918年(大正7年)に三井鉱山は黒部川における水利権出願を撤回。黒部川の水利権は高峰らの東洋アルミナムに許可され、以降、同社や1928年(昭和3年)に同社を吸収する日本電力の手によって黒部川開発が進むことになる。
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