七雄の並立とは? わかりやすく解説

七雄の並立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 14:04 UTC 版)

戦国時代 (中国)」の記事における「七雄の並立」の解説

春秋時代には国の祭祀絶つと国の祖先から呪われるという考えから、国を占領しても完全に滅ぼしてしまうことはそれほど多くなく、また滅びて復興することがよくあった。戦国時代に入ると容赦なくなり戦争負けることは国の滅亡直接繋がったそのような弱肉強食世界で次第7つ大国収斂されていった。その7つの国を戦国七雄と呼ぶ。春秋時代には名目的には周王権威残っていたが、戦国時代になると七雄君主それぞれ「王」称するようになり(ただし、君主以前から王であった)、周王権威失われた戦国時代初期諸侯国数十国あり、その中で斉・晋・楚・越の4国の国力強く天下は4分のとなっている。 春秋時代長期的な戦争により、晋の国君春秋末期になると傀儡となり、卿や大夫政治実権掌握することになった春秋末期その中で六卿智氏・范氏・中行氏・韓氏趙氏魏氏が有力であった。范氏と中行氏が滅ぼされる封地は他四家分配された。智氏当主智瑶紀元前455年韓氏魏氏両家趙氏滅ぼそうとして、趙無恤本拠晋陽水攻めにしたが、韓氏魏氏の裏切りにあった紀元前453年智氏滅亡した智氏土地配分したまた、三家は晋公室土地人民配分した。これを三家分晋という。 斉では卿族で小国陳の亡命公子陳完の子孫の田恒氏と連合して欒氏と高氏から政権奪い取り滅ぼした遂に国君追放して自らが国君となった。 燕は国力上昇し、秦は中興した。弱小諸侯国は呑併或いは附庸国となった戦国時代中期には主要な諸侯國は 韓(紀元前403年 - 紀元前230年) 趙(紀元前403年 - 紀元前228年) 魏(紀元前403年 - 紀元前225年(? - 紀元前223年) 燕(紀元前1100年頃 - 紀元前222年) 斉(紀元前386年 - 紀元前221年) 秦(? - 紀元前206年) の7国となった。これを戦国七雄という。 小国としては東周・宋・衛・中山・滕・邾・費(中国語版)等が存在していて、宋や中山といった国々王号唱えており、諸国における重要度高かったという指摘もされている。秦の附庸国となった衛を除き戦国七雄によって併呑された。

※この「七雄の並立」の解説は、「戦国時代 (中国)」の解説の一部です。
「七雄の並立」を含む「戦国時代 (中国)」の記事については、「戦国時代 (中国)」の概要を参照ください。

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