ワイアット・アープとの初期の関係
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「ジョゼフィーン・アープ」の記事における「ワイアット・アープとの初期の関係」の解説
彼女とワイアット・アープとの関係がいつどのように始まったのかは、不明である。トゥームストーンの日記記入者ジョージ・W・パーソンズ(George W. Parsons)は、ワイアット・アープとジョセフィーンがいっしょにいるのを見たとはけっして言わなかったし、ジョン・クラム(John Clum)もまたその回想録で言わなかった:p235。彼らの関係のトゥームストーンでの同時代の記録はないいっぽうで、ビーアンとアープの両者が、クリスタル・パレス・サルーン(Crystal Palace Saloon)の上に事務所を持っていたから、確実にたがいに知り合っていた。 フランク・ウォーターズ(Frank Waters)は、その書籍『The Tombstone Travesty』(のちに『The Earp Brothers of Tombstone』として刊行される)のなかで、ヴァージル・アープ(Virgil Earp)の妻アリー(Allie)がつぎのように言っていると引用した、「サディーの魅力は否定できない。彼女は、身体が小柄で引き締まっていて、ヒップの『動き』(meneo)が、フラウンスのついたゆったりしスカートを跳ねさせさせ続けた。サディーは魅力的な女で、髪は豊かで黒っぽく、眼は生き生きとして黒く、胸は豊かであった。 一部の現代の著者は、ジョセフィーンがビーアンを蹴り出したのち、ワイアット・アープがジョセフィーンのところに引っ越した、と考えている。しかし、ビーアンとサディーが家を建てて8ヶ月もしない1881年4月に、彼女はそれをドクター・ジョージ・エモリー・グッドフェロー(Dr. George Emory Goodfellow)に賃貸した。8月および9月のいつかに、サディーとワイアットは、友人になったのかもしれず、ひょっとするとさらに深い関係になったのかもしれない。作家アラン・バラ(Alan Barra)は、OK牧場の決闘の前にビーアンとアープはたがいに1人の女に惹かれていることを知っていて、OK牧場の決闘が彼らの敵意の一因であったかもしれないと提示している:p235。作家スチュアート・レークは手紙の中で、「ジョニー・ビーアンの恋人」("Johnny Behan's girl")は「トゥームストーンという織り糸全体の鍵」(“the key to the whole yarn of Tombstone”)である、と書いた。 元ニュー・メキシコ準州知事ミゲル・アントニオ・オテロ(Miguel Antonio Otero)によって書かれた手紙が、アープが1882年4月にトゥームストーンを離れる少し前にジョセフィーンに対する強い感情を持っていたことを示しているようである。アープ・ヴァンデット・ライド(Earp Vendetta Ride)につづいて、アープ民兵団は、2週間、アルバカーキに行った。そこに居るあいだ、ワイアットは、成功した実業家ヘンリー・N・ジャッファ(Henry N. Jaffa)の家に滞在したが、ジャッファはニュー・アルバカーキの商工会議所の会頭(president of New Albuquerque’s Board of Trade)でもあった。ジャッファもまたユダヤ人であった。 ワイアットとホリデイは、ホリデイが1878年にドッジ・シティ(Dodge City)でアープの生命を救って以来、親友どうしであった。アルバカーキに滞在中、2人の男は、「ファット・チャーリー」("Fat Charlie")所有のリトリート・レストラン(Retreat Restaurant)で食事をした。オテロ(Otero)は手紙に書いた、「ホリデイは、アープが『いまいましいユダヤ小僧』('a damn Jew-boy')になったことについて何か言った。アープは腹を立てて立ち去った....。[ヘンリー・]ジャッファはのちにわたしに、アープの恋人はユダヤ女(Jewess)(蔑称)だ、と語った。アープはその家にはいるとき、メズーザーを実践した」("Holiday said something about Earp becoming 'a damn Jew-boy.'Earp became angry and left….[Henry] Jaffa told me later that Earp’s woman was a Jewess.Earp did mezuzah when entering the house.")アープの、ホリデイの民族的中傷に対する怒りは、彼のジョセフィーンに対する当時の感情が、普通に知られている以上に本気であったことを示しているのかもしれない。手紙の中の情報は、当時それは1940年代に書かれたから、感嘆させずにはおかないが、トゥームストーンに暮らしている間のワイアット・アープとジョセフィーン・マーカスとの関係は、実質上、知られていなかった。オテロがこれらのことを書き得た唯一の方法は、もし彼が関係者の一部と個人的関係があった場合であった。アープ仲間はアルバカーキで仲間割れし、ホリデイとダン・ティップトンは乗ってプエブロに行き、そのいっぽうで、一団の残りはガニソン(Gunnison)に向かった。
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