ロールバッハ、ヴェムバッハ、ハーンのヴァルド派
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「オーバー=ラムシュタット」の記事における「ロールバッハ、ヴェムバッハ、ハーンのヴァルド派」の解説
1685年のナントの勅令廃止後、プロテスタントの信仰のために故郷を逐われたヴァルド派の人々が、1699年にピエモンテ公の町プラジェーラ(現在のプラジェラートで、オーバー=ラムシュタットの友好都市である)からロールバッハ、ヴェムバッハ、ハーンにやって来て新しい村を築いた。 12世紀にまで遡り、その信者らは当時からすでに迫害の対象になっていたヴァルド派の活動だが、それは1532年の宗教改革に結びついている。彼らは、他の迫害を受けた人々(たとえばユグノー派の人々)と併せて、ドイツのプロテスタント諸侯に受け容れられたのである。その入植地は、一部は負担軽減の特権を得たものもあったが、ドイツ諸侯領にとっても文化的・経済的に利益になるものであった。 話し合いの結果、エルンスト・ルートヴィヒ方伯は1699年にプラジェーラから約400人のヴァルド派信者をロールバッハ、ヴェムバッハ、ハーンの御料地に受け容れることを許可した。この方伯の御料地は後に計画的に開発がなされ、特にロールバッハでは徹底して合理的な開発が行われた痕跡を現在でも見ることができる。ユグノー派の人々は、この頃にはハーナウ、ノイ=イーゼンブルク、マンハイムあるいはフロイデンシュタットといった都市部に入り込んでいた。 入植地はヴェムバッハとハーンの間の街道沿いに発展した。ロールバッハに中心農場施設が設けられ(現存しない)、新しい村の指導所・中心的施設に選ばれた。1699年から最初の30年間は定期的に、典型的な木組み家屋とU字型にそれを囲む付属建築物が建造されていった。建物の敷地は同じ広さに、すべての耕地も平等の原則の下に分割された。 ロールバッハの教会や牧師館および墓地広場は、町の中心部の長く延びた空き地に設けられた。1708年に3つの集落のために木組み建築の教会が造られたが、1767年に堅牢なホール式建築に置き換えられた。内部は、プロテスタントの教義の厳格な規律にふさわしく、大変に簡素なものである。この教会をモデルにしたヴェムバッハの教会は1835年に建造された。 ヘッセン南部にジャガイモの栽培を広めたのは、おそらくヴァルド派の人々であったと推測されている。南フランスでは、17世紀中頃にはすでにジャガイモの栽培が行われていたのである。現金収入になる副業についても、その品質が地域で高く評価されていたヴァルド派の家族の痕跡が数多く見られる。
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