ローデシア・ニヤサランド連邦
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「マラウイの歴史」の記事における「ローデシア・ニヤサランド連邦」の解説
詳細は「ローデシア・ニヤサランド連邦」を参照 1940年代後半、飛躍的な経済発展を遂げた南ローデシアは、北ローデシアの資源とニヤサランドの黒人の労働力の獲得、および、アフリカ人の民族主義を阻害する目的で、これら3つのイギリス領による連邦制の構築を主張し、これを受けて1953年8月1日にローデシア・ニヤサランド連邦が成立した。しかし、成立した連邦では南ローデシアの白人入植者を優遇する政策が多く、人口の99%以上を黒人が占めるニヤサランドには連邦制のメリットが少なかったことや、アフリカ諸国で独立への機運が高まっていたことがあり、1959年にはニヤサランド内で叛乱が発生することとなった。 また、その前年の1958年7月29日には、アメリカテネシー州のナッシュビルにあるメハリー医科大学(en:Meharry Medical College)で1937年に学位を取得し、イギリスとガーナで診療所を開いていたヘイスティングズ・カムズ・バンダがニヤサランドへ帰国。その後すぐにニヤサランドアフリカ人会議の指導者へと就任した。同会議は翌年にバンダを含む主要メンバーの逮捕により瓦解しかけるが、逮捕されなかった残りのメンバーによりマラウイ会議党 (MCP) が結成された。バンダは北ローデシアのグウェロ刑務所(Gwelo Prison)へ送られたものの、翌1960年には出所してマラウイ会議党の指導者に就任するとともに、ロンドンで行われた連邦の憲法に関する協議会に出席した。 1961年4月15日、バンダ率いるマラウイ会議党は、新たに制定された憲法の下で行われた1961年ニヤサランド立法議会選挙に圧勝した。バンダは立法議会で重要な役割を得て、1年後の1962年には実質的なニヤサランドの統治者となっていた。また、1962年11月にロンドンで第2回目の憲法協議会が行われ、イギリス政府は翌1963年からニヤサランドに、自治権を与えることに同意した。
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