ロセッティとの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 11:56 UTC 版)
「アレクサ・ワイルディング」の記事における「ロセッティとの時代」の解説
1865年のある夕刻、ストランド(英語版)を歩いていた時に初めてロセッティに見出された。彼は直ちに彼女の美しさに感銘を受けた。翌日、絵画『アスペクタ・メドゥーサ』のためにモデルを務める事に同意したが、約束の日程には現れなかった。当時のモデルに対する背徳的な評判に彼女が躊躇した可能性がある。数週間が経ち、ロセッティは自分が考えていた絵のアイデアをあきらめていた。それ故、通りで彼女を再び見つけたとき、この特定のモデルの容姿が重要だと確信した。彼は乗っていたタクシーから飛び降り、彼女を説得してアトリエに直行させた。他の芸術家も彼女を雇うかもしれないと恐れた彼は、専属のモデルとして彼女に毎週給金を支払った。2人は永続的な絆を共にした。1882年にロセッティが亡くなった後、ワイルディングは経済的にはあまり裕福では無かったが、バーチントン=オン=シー(英語版)の彼の墓に花輪を捧げるために旅をしたと言われている。 1881年の国勢調査によると、34歳のワイルディングは、ケンジントンのレッドクリフロード33に、チャールズとネリー・ワイルディングと言う2人の幼い子供と一緒に住んでいた。チャールズ・ジェームズ・アーネスト・ワイルディングは1876年6月23日にハマースミスで生まれ、エレノア(ネリー)・ワイルディングは1877年9月3日に同じくハマースミスで生まれた。彼らの父親は不明である。この時点でアレクサは地主と財産所有者としての地位を占め、労働者階級の女性にとっては相当な業績を挙げていた。ロセッティは1873年以降のダン(英語版)に宛てた手紙の中で、ワイルディングの住宅事情について不満を語っている。「きっとA.W.は彼女のこの狂った家を処分するでしょう。」
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