ロセッティとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 01:05 UTC 版)
「ファニー・コーンフォース」の記事における「ロセッティとの関係」の解説
1856年にロセッティと出会い、1860年に彼と結婚したエリザベス・シダルの不在中にロセッティのモデル兼愛人となった。多くの伝記作家はシダルがコーンフォースを嫌っていたと推測したが、シダルが彼女の存在を知っていたという証拠すら無い。最初の役割は『見つかって(英語版)』の絵の主人公の頭部のモデルであった。彼女は後に「私の頭を壁に押し付け、あの子牛の絵の中の人の頭を描いた」と語った。 ロセッティの結婚式から3か月後、工員のティモシー・ヒューズと結婚したが短期間に終わり夫妻は別居した。彼女がいつから「ファニー・コーンフォース」を名乗り出したかは定かではないが、コーンフォースは彼女の最初の夫の継父の名前であった。 1862年にシダルが亡くなった後、寡夫となったロセッティの家に家政婦として住み込んだ。2人の関係はロセッティの死まで続いた。ロセッティは同僚のウィリアム・モリスと結婚したジェーン・モリスとも断続的に関係を続けていた。彼らの関係は公表されなかったが、コーンフォースと彼の関係は公表された。 コーンフォースの出自は、イギリス社会における下層・地方労働者階級であった。彼女の粗野なアクセントや教育の欠如は、ロセッティの友人や家族に衝撃を与えた。ロセッティの弟ウィリアム・マイケル・ロセッティは彼女の美しさを称賛したが、「彼女には育ち、教育、知性の魅力は無かった」と語った。多くの人々が彼女を受け入れられず、ロセッティに関係を終わらせるよう圧力をかけた。彼らの関係が続く中、コーンフォースの体重は増加していった。多くの伝記作家によってこれが題材にされたが、ロセッティとコーンフォース双方の増加する胴回りは互いのジョークとなった。ロセッティは彼女を「愛しの象」という愛称で呼び、彼女は彼を「犀」と呼んだ。互いに離れている時は彼は象の漫画を描いて彼女に送り、しばしば「老いた犀」と署名した。 ロセッティの健康が目に見えて衰え始めると、家族は彼の生活に直接的に干渉するようになった。1877年、コーンフォースはロセッティの家を離れることを余儀なくされた。ロセッティは近所に住む彼女のために家賃を払い、「貴女は私が扶養の義務を負うべき唯一の人で、貴女は私の息が続くか、財布に小銭があるかする限り、私が最善を尽くすと安心していていい。」と手紙を書いた。彼は自身の絵の何点かを与え、彼女の法的所有権を確かめる文書を作成した。
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