ロシア連邦首相解任後
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「エフゲニー・プリマコフ」の記事における「ロシア連邦首相解任後」の解説
下野したプリマコフは政治ブロックを結成し、政治的復権を狙う。1999年8月17日にプリマコフはモスクワのユーリ・ルシコフ市長とタタールスタン共和国のミンチメル・シャイミーエフ大統領らとともに政治ブロック「祖国・全ロシア」(OVR)を結成し、調整会議議長(代表)に就任した。同年12月の下院国家会議選挙で「祖国・全ロシア」は第3党となり、プリマコフも比例代表で立候補し、下院議員に当選した。その後大統領選挙に出馬を模索したが、プリマコフと同じソビエト連邦国家保安委員会出身でFSB長官だったウラジーミル・プーチンがチェチェン紛争を利用して国民の支持を獲得したため、プーチンとの直接会談で立候補を断念してプーチンを支持した。2001年には、政権与党の「統一」とプリマコフらの「祖国・全ロシア」が統一ロシアとして合同する動きを見せたため、「祖国・全ロシア」代表と下院議員の職も辞任した。 政界引退後の2001年12月にロシア商工会議所会頭に就任して経済界の重鎮となり、2002年からはロシアの政治家や実業家などを集めた「マーキュリー・クラブ」の創設者かつ議長としてプーチン大統領本人も認めているように度々助言を政府に与え、プーチン政権の特徴である西側諸国を牽制する外交政策・国家が統制する経済政策などはプリマコフが先鞭をつけたとも評されている。 その外交手腕をプーチン大統領から買われ、国際政治の舞台にもしばしば登場していた。2003年2月と3月にはプーチン大統領の特使としてイラクを訪問してイラクのサッダーム・フセイン大統領と会談しており、フセインの亡命を勧めたともされる。プリマコフは大量破壊兵器を国際連合に引き渡すよう求めたが、フセインはプリマコフの肩を軽く叩いて部屋を出て行ったという。また、コソボ空爆時にNATOと対峙したロシア連邦首相であったため、2004年11月には旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷にユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ元大統領の弁護人として出廷した。 2015年6月26日死去。85歳没。プーチン大統領は盛大な国葬を営んだ。 2019年10月29日にはモスクワのロシア連邦外務省前にプリマコフの銅像が建てられ、完成式典でプーチン大統領は「プリマコフ外交のおかげで、ロシアは世界の敬意を取り戻した」と称えた。
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