レオポルト・ヴィルヘルム大公の美術品購入代理人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/21 13:39 UTC 版)
「ジョン・マイケル・ライト」の記事における「レオポルト・ヴィルヘルム大公の美術品購入代理人」の解説
ライトは1654年にローマを離れ、ブリュッセルへと旅している。当時のライトの名声はブリュッセルに居を構えていたスペイン領ネーデルラント総督レオポルト・ヴィルヘルム大公も認めるものだった。レオポルトはライトを芸術家ではなく、美術品収集の助言者として雇い入れた。神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の末弟にしてスペイン王フェリペ4世の従兄弟という名門ハプスブルク家のレオポルトには、絵画や美術品の巨大なコレクションを収集するだけの財力と権力が十分備わっていた。1655年当時のレオポルトは、イングランドの護国卿オリバー・クロムウェルと互いに馬を交換し合ったり、クロムウェルにホワイト・ホール宮殿の改築に使用するタペストリーや美術品を提供するなど、親交を持っていた。クロムウェルのもとにハプスブルク家からの友好使節団が訪れたこともあった。イングランド内戦によって1649年にイングランド王チャールズ1世が処刑されて以来、レオポルトはイングランド王室のコレクションなど様々な美術品を取得し続けており、レオポルトから美術品購入を一任されていたライトはこのような状況のもとでロンドンを訪れて美術品を購入していった。ライトが所持していたパスポートには「ファン・ミゲル・リタ、イングランド人画家、絵画、メダル、古美術品収集のためにイングランドを訪問中で・・・ Juan Miguel Rita, pintor Ingles, qua va a Inglaterra a procurar pinturas, medalas, antiguedades, y otras costa señaladas, que le hemosencargado...」と書かれ、ライトのイングランド滞在を保証していた。ライトのパスポートの発行日付は1655年5月22日でレオポルド自身がブリュッセルで署名しており、ライトがこの時期までにイタリアを離れてフランドルへと向かったことを示唆している。 公的業務の一つとして、ライトはレオポルトが個人的にロンドンに駐在させていた特命大使マルケス・デ・リーデと、ハプスブルク家の公式ロンドン大使アロンソ・デ・カルデナスに表敬訪問をしたと考えられている。この両名とも1649年からスペイン王家のために美術品を買い上げるという役割を果たしていた。当時の記録が不足しているため、ライトがこの二人のもとを訪れた時期や期間は明らかにはなっていない。しかしながら、ハプスブルク家とクロムウェルの仲が険悪化し、1655年6月末にデ・リーデが、その数週間後にデ・カルデナスが相次いでロンドンを離れているため、ライトも間もなくロンドンからフランドルへ戻ったと考えられる。フランドル帰還時にライトは購入した美術品を持参していたが、ちょうど同時期にレオポルトは自身の巨大な美術コレクションとともにブリュッセルを後にしていたことを知らされている。レオポルトがウィーンへと住まいを移した後に、ライトは再度ロンドンを訪れた。1656年4月9日に港町ドーバーに到着しており、当時の入国記録に次のような記述が残っている。 イングランド人マイケル・ライトがダンケルクから今月9日にドーバーに到着した。12日にロンドンへと来訪し、ミドルセックスのジャイルズ教会区ウェルド街にあるジョンストン夫人邸に宿をとった。自分のことをフランス、イタリア、他諸国で長い間絵画を学び続けている画家であると語っており、すぐに妻子の待つイタリアへと戻るつもりだとしている この記録ではライトがフランドルでハプスブルク家のレオポルトに雇われていたことが巧妙に隠され、婉曲的に「他諸国」という表現に置換されている。これは当時ハプスブルク家とイングランドが戦端を開いていたためで、ライトが名誉あるアカデミア・ディ・サン・ルカの一員であることも言及されてはいない。
※この「レオポルト・ヴィルヘルム大公の美術品購入代理人」の解説は、「ジョン・マイケル・ライト」の解説の一部です。
「レオポルト・ヴィルヘルム大公の美術品購入代理人」を含む「ジョン・マイケル・ライト」の記事については、「ジョン・マイケル・ライト」の概要を参照ください。
- レオポルト・ヴィルヘルム大公の美術品購入代理人のページへのリンク