リン鉱床の発見と初回開発の挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:53 UTC 版)
「北大東島のリン鉱山」の記事における「リン鉱床の発見と初回開発の挫折」の解説
大東諸島など南海の島々に注目していた人物の一人が恒藤規隆であった。恒藤は日本における土壌調査の創始者とされる人物であり、食糧問題や土壌問題に取り組む中でリン資源の発見、開発をライフワークとするようになった。リン資源探査を進める中で1902年、南鳥島でグアノが発見された。その後恒藤は沖縄や台湾周辺の島々など、南方の島々でのリン資源探査に重点を置くようになった。 恒藤によるリン資源調査の中で、1906年には沖大東島(ラサ島)でリン鉱石を発見した。恒藤は北大東島にもリン資源の調査員を派遣してリン鉱石を発見した。しかし調査の結果、北大東島のリン鉱石は鉄礬土の含有量が多いため資源化は困難であると判断した。恒藤は北大東島のリン鉱石についてリン酸の含有量は決して低くないものの、主として鉄分と酸化アルミニウム分と化合したもので石灰分が少なく品質不良であり、通常の方法では肥料製造に適さないと述べている。 恒藤が有望と判断したのは沖大東島のリン鉱石であった。北大東島とは異なり、沖大東島のリン鉱石については日本領内で最良質のものであり、肥料原料としては無二の逸品で輸入品と遜色ないと極めて高く評価していた。恒藤は沖大東島へ調査員を派遣して資源調査を進めるとともに、資源の権利確保に苦しみながらも企業化を目指して1910年には日本産業商会、そして1911年にはラサ島燐鉱合資会社を設立し、1911年5月にはラサ島鉱業所を創業して鉱山経営開始に漕ぎつける。 沖大東島でのリン鉱石開発の動きに触発され、1908年に玉置商会も北大東島のリン鉱石開発に着手する。1910年には島の北西部の黒部岬、そして玉置平でリン鉱石採掘事業を開始した。しかし恒藤の見立て通り北大東島のリン鉱石は著しくアルミナの含有量が多く、また鉱山経営に不慣れであったことも重なって、1911年には事業中止に追い込まれた。
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