リュティヒ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 23:47 UTC 版)
「ファレーズ・ポケット」の記事における「リュティヒ作戦」の解説
詳細は「リュティヒ作戦」を参照 アメリカ軍の進撃はあまりにも早く、8月8日までにはル・マン(ドイツ第7軍が過去に司令部をおいていた)を占領した。コブラ作戦とイギリス、カナダ両軍の攻撃の影響で、ノルマンディーのドイツ軍は歴史家マックス・ヘイスティングスの言うところの「ほんの一握りの武装SSだけが勝利への望みを抱いていた。」というひどい有様になった。東部戦線ではソビエト赤軍がバグラチオン作戦を発動、ドイツ中央軍集団が大きく押されており、ドイツ軍には西部戦線へ送る戦力が存在しなかった。B軍集団司令官クルーゲはセーヌ川まで撤退するようヒトラーに要請したが、ヒトラーは撤退どころか、モルタン-アバランシュ間でクルーゲ配下の9個装甲師団の内、8個師団を用いて即時、反撃を行い敵を撃滅し、コタンタン半島西岸まで進出する事を命令した。そこでクルーゲは、4個装甲師団(その内、ひとつは損害がひどかった)を防御任務から引き抜き、反撃の準備をさせた。師団長はそのような作戦に対応するには戦力が足りないと主張したが、これは無視された。そして反撃作戦である、リュティヒ作戦(Operation Lüttich)がモルタンで8月7日に始まった。第1SS装甲師団「ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー」と第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」が最初に攻撃を開始することになっており、それらには75両のIV号戦車、70両のパンター、32両の突撃砲が所属していた。しかし、ドイツ軍が誇る暗号機エニグマを使用した暗号通信は、イギリス暗号解読グループ「ウルトラ(en)」によって全て破られていた。そのため、ドイツ軍の攻勢をすでに察知していた連合軍は対応をすでに完了していた。結局、戦いは8月13日まで続いたが、作戦は初日には失敗したも同然であった。この結果ドイツ軍の状況はさらに深刻となった。クルーゲ配下の最強部隊はアメリカ第1軍によって撃破され、ノルマンディーにおける戦線はすでに崩壊寸前であった。ブラッドリーは「これは指揮官にとって一世紀に一度しかない機会だ、我々はドイツ軍を撃破してここからドイツへと向かう」と語った。
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