リュジニャン家の問題と決定的な敗北
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「アンジュー帝国」の記事における「リュジニャン家の問題と決定的な敗北」の解説
ユーグ9世・ド・リュジニャンがアリエノールを人質にした際に、ジョンは彼をラ・マルシュ伯に任じた。かくしてリュジニャン家は勢力を拡大することになる。1200年8月にジョンは最初の結婚を取り消し、ユーグ10世・ド・リュジニャンの婚約者であったイザベラ・オブ・アングレームと結婚して、ラ・マルシュ伯領を没収した。リュジニャンはフィリップ2世に調停を求め、フィリップ2世はジョンに宮廷に出廷するよう命じた。ジョンはこれを拒否し、フィリップ2世は宗主権の力を駆使してフランスのジョンの領土を没収した。フィリップ2世は更にアルテュールの忠誠を受け入れ、アルテュールは1202年にポワトゥー、アンジュー、メーヌ、トゥールを支配することになった。トゥールーズ伯レーモン7世もフィリップ2世に加わり、ブローニュ伯ルノーもこれに続いた。ジョンの同盟者のほとんどは十字軍のため聖地にいたか、ジョンを見放していた。ナバラ王サンチョ7世のみはジョンの側についていたが、救援が不可能であるほど弱い立場にあった。 アルテュールはリュジニャンと共にポワトゥー地方に軍を進め、一方フィリップ2世はノルマンディーを攻撃して国境一帯の多くの城を占領した。これらの攻撃の際、ジョンはル・マンに滞在しており、南方に向かうことを決断した。ジョンの軍隊は200の騎士とアルテュールとリュジニャンを捕えた。さらにリモージュ副伯(ヴィコント)をもとらえてシノンに幽閉した。1202年は、ジョンの大勝利の年であり、自らの敵に対して成功を収めたことでジョンがリチャード1世やヘンリー2世とは異なることを示した年であった。 不幸にもジョンには致命的な性格上の欠点が一つあった。「ジョンは自らが下した相手に、更に蹴りを入れる誘惑を耐えられない男だった」 ジョンは敵を辱めることで喜びを見出した。アルテュールが獄中で殺された(恐らくはジョンが命じた可能性が高い)後、ジョンの多くの支持者達は彼を見放した。 以前の同盟者もジョンに反旗を翻し、ノルマンディーのアランソンをフィリップ2世に明け渡していた。ヴォードルイユは戦わずしてフィリップ2世の手に渡った。ジョンはアランソンの奪還を図ったが、フィリップ2世が到着するやすぐに撤退した。6か月の包囲の後にガイヤール城が落ちたことはアンジュー家を打ちのめした。フィリップ2世はノルマンディーへの遠征を続け、わずか3週間でアルジャンタン、ファレーズ、カーン、バイユー、リジウーを落とした。同じ頃、ブルトン軍はモン・サン=ミシェルとアヴランシュを占領した。1204年にはトゥールが、1205年にはロッシュとシノンが落ちた。わずかにルーアンとアルクのみが残った。ルーアンは最終的に服従し、その門をフィリップ2世に開いた。その時にノルマンディー公時代の城は壊され、より大きいものを作るように命じられた。 アリエノールは1204年に死んだ。ポワトゥーの貴族の大部分はアリエノールには忠誠を誓っていたが、ジョンに対してはそうではなく、フィリップ2世側に就いた。アリエノールの死後、アルフォンソ8世はヘンリー2世が自分の娘レオノールを差し出した際に示した持参金としてガスコーニュを求めた。ガスコーニュはかつての強大だった「アンジュー帝国」のうちアンジュー家に忠誠を誓い続ける数少ないフランス部分だった。そのため、ガスコーニュはアルフォンソに抵抗し、ジョンの支配下にとどまった。 2人の王は1206年に最終的に和平に同意した。「アンジュー帝国」はガスコーニュ、アイルランド、イングランドのみを残して縮小した。
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