リッチオ殺害事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/31 04:22 UTC 版)
「ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)」の記事における「リッチオ殺害事件」の解説
一方ダーンリー卿は、メアリーが冷たくなったのは、メアリーが信頼する秘書官デイヴィッド・リッチオと不倫しているからに違いないと、寵臣とはいえメアリーの秘書に過ぎない男と妻との関係を邪推するようになっていった。リッチオはピエモンテ生まれで、初めはサヴォイア大使モレタ伯の供として1561年にスコットランドにやってきた。カトリックである事もあり、メアリーに気に入られたリッチオは、初めは音楽家として仕えていたが、利害しだいでたやすく背くスコットランド貴族より忠実で信頼できると思ったメアリーによって侍従に取り立て、その後に秘書官となっていた。大勢の者がメアリーとダーンリーの結婚に反対したが、ダーンリーの友人だったリッチオだけは祝福した。しかしダーンリーは、そんな友人のリッチオにさえ不信感を抱くようになった。 そんなダーンリーに、リッチオの権勢に反感と危機感を抱いていた貴族達が接近し、リッチオ殺害の企みに署名させた。リッチオを殺害したあかつきには、ダーンリーに国王としての実権を与え、見返りにプロテスタントの信仰を保護し、さらにマリ伯一味の復帰を認めるという条件であり、他にマリ伯、アーガイル伯、グレンケアン、ルースヴェン卿、モートン伯、リンゼー、アラン伯の非嫡出子ジョージ・ダグラスが署名した。 1566年3月9日、ホリルード宮殿で数人の親しい人々とメアリーが談笑していた時、突然暗殺者一味が部屋に押し入り、リッチオをメアリーの目の前でめった刺しにして殺害してしまった。 この時、一味はメアリーをお腹の子供もろとも殺害するつもりだったという説もある。この事件の前の2月13日に、イングランド大使ランドルフは、レスター伯ロバート・ダドリーに宛てて ダーンリー父子の間では女王の意に反した王位獲得の陰謀が進められています。うまくいけば、国王(ダーンリー)の同意を得て、10日以内にデイヴィッドの喉はかき切られる事になるでしょう。いえ、これよりもひどい災いが他ならぬ女王の身にも及ぶという噂も、私の耳に入っております。 と、この事件を予測するような手紙を書いている。 暗殺者達はメアリーをホリルード宮殿に幽閉し、ダーンリーに完全な王位を与える事を迫ったが、メアリーは断った。その後、彼女はダーンリーに、反乱貴族達は彼にとっても信用できない相手である事を説明し、説得する事に成功した。近衛隊長アースキンの助けによりメアリーは宮殿を脱出し、ボスウェル伯、ハントリー伯、アソール伯、フレミング伯らと合流し、8000人の兵が集結した。不利と見たマリ伯一派は再びイングランドへ逃亡した。
※この「リッチオ殺害事件」の解説は、「ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)」の解説の一部です。
「リッチオ殺害事件」を含む「ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)」の記事については、「ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)」の概要を参照ください。
- リッチオ殺害事件のページへのリンク