ラ・ロジェール精神病院に入院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/19 08:56 UTC 版)
「アロイーズ・コルバス」の記事における「ラ・ロジェール精神病院に入院」の解説
アロイーズの精神疾患は慢性化して、1920年にはスイスのジメルにあるラ・ロジェール精神病院へ転院し、そこで1964年の死まで44年間を過ごすことになる。当時、ロジェール精神病院は慢性化した精神疾患患者の入院先であり、積極的な治療は行われていなかった。それは逆に言えば既存の美術教育の影響を全く受けることなく、独自の感性で制作されたアウトサイダー・アートを生み出す格好の土壌となったが、その多くは無関心のために消失してしまった。アロイーズの初期の作品もその例に漏れず、多くの作品が処分されてしまった。 アロイーズはロジェール精神病院に入院した当初から、周囲の人々に知られることなく絵画制作に没頭するようになった。この当時、彼女は院内で自閉的で静かな生活を送っていたが、院内のゴミ箱から紙を集め、洗面所で絵を描いたりしていた。 1937年にアロイーズは自ら院内の衣類修繕の仕事をすることを申し出た。その後彼女は洗濯物のアイロンがけの仕事を行うようになった。その頃からアロイーズが絵画を制作していることが知られるようになってきて、ロジェール精神病院で働いていたハンス・ステック教授など、関心を持つ人も現れてきて、時々スケッチブックや色鉛筆を貰うようになった。 1939年、医学生であったジャクリーヌ・フォレルはハンス・ステック教授の授業の際に初めてアロイーズの絵を見た。1941年にフォレルはロジェール病院で常勤医の代理で診察を行った際、初めてアロイーズ本人と出会った。アロイーズの作品に強く魅かれたフォレルは、その後アロイーズの死まで画材の提供等の援助を惜しまなかった。フォレルはその後もアロイーズの研究に生涯を捧げ、アロイーズ財団の会長を勤めている。 1947年、アール・ブリュット作品の発掘に努めだしたジャン・デュビュッフェは、オスカー・フォレルという医師に手紙を書いて、アール・ブリュットの紹介を依頼した。しかしその手紙はジャクリーヌ・フォレルのところに誤配され、その結果、デュビュッフエはアロイーズのことを知ることになる。アロイーズの作品を知ったデュビュッフエはその芸術性を高く評価し、その後幾度となくアロイーズに面会をするようになった。デュビュッフエの紹介で世に知られるようになったアロイーズの描く絵画は、やがてアール・ブリュットの主要な作品の一つと見なされるようになった。 時々訪れるアロイーズの芸術に興味を抱く訪問者たちを除くと、午前中はアイロン掛け、その後は絵画制作とアロイーズの日常生活は単調であった。しかし死の床にあってもアロイーズは絵筆を放すことなく作品を作り続け、1964年4月6日に死亡した。
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