ユーロ92に向けて
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「サッカーユーゴスラビア代表」の記事における「ユーロ92に向けて」の解説
ワールドカップをベスト8で終えたユーゴスラビア代表であったが、それでもこのチームの評価は低くなく、スウェーデンで開催される1992年のUEFA欧州選手権1992(ユーロ92)では優勝候補の一つとして数えられていた。 しかしユーゴスラビア国内に目を向けると確実に連邦崩壊の危機が迫っており、ユーロ92の予選は、ユーゴスラビア崩壊と足並みをそろえつつ進行されていった。連邦を構成する共和国の内、最も早く連邦離脱を決めたのは1991年6月に独立を宣言したスロベニアとクロアチアであったが、それ以前にこれらの共和国出身の選手は、選手自身の意思とは関係なく、ユーゴスラビア代表への参加を周囲の圧力で拒まれる状況が出始め、5月16日の対フェロー諸島を最後にユーロの予選はスロベニア、クロアチアの選手抜きで行われた。それでも、デンマーク、オーストリア、北アイルランド、フェロー諸島のグループをわずか1敗で予選を通過した。 予選通過を決めた1991年10月16日の時点で、既にスロベニア、クロアチア、マケドニアは独立を宣言。元々連邦内でもセルビアとは友好的だったマケドニアはともかく、スロベニアの十日間戦争は早期に終結したものの、クロアチア紛争は泥沼化の様相を呈しはじめ、ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア人、ボスニア人も独立を宣言していた。 こうした状況の中で、ユーゴスラビア代表の運命を決定付ける事件が1992年4月6日に起こる。ユーゴスラビア連邦軍がサラエヴォを包囲したのである。この事件は2つの意味でユーゴスラビア代表の運命を大きく揺さぶった。 サラエヴォは監督のイビチャ・オシムの生まれ故郷だった。この問題はオシムがユーゴ代表監督を辞任する5月22日まで、ユーゴサッカー協会の大きな問題点の一つとなった。オシム自身も、自らの故郷を砲撃している国の監督(彼はパルチザン・ベオグラードの監督も兼務していたが、皮肉にもここは元々ユーゴスラビア人民軍のクラブだった)を務めているというジレンマと戦い続けなければならなくなった。 ユーゴスラビア人民軍が50万以上もの民間人(その中にはオシムの妻と娘もいた)を内包したままのサラエヴォを包囲し、市民多数を襲撃した事によってユーゴスラビア、特にその中心を占めるセルビアの悪玉論が国際世論の中で主流を占めるようになったことである。このことはユーゴスラビア代表を国際試合の舞台から引き摺り下ろすことになった。
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