ユーロ92に向けてとは? わかりやすく解説

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ユーロ92に向けて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:29 UTC 版)

サッカーユーゴスラビア代表」の記事における「ユーロ92に向けて」の解説

ワールドカップベスト8終えたユーゴスラビア代表であったが、それでもこのチーム評価低くなく、スウェーデン開催される1992年UEFA欧州選手権1992ユーロ92)では優勝候補一つとして数えられていた。 しかしユーゴスラビア国内目を向ける確実に連邦崩壊危機迫っており、ユーロ92予選は、ユーゴスラビア崩壊足並みをそろえつつ進行されていった連邦構成する共和国の内、最も早く連邦離脱決めたのは1991年6月独立宣言したスロベニアクロアチアであったが、それ以前にこれらの共和国出身選手は、選手自身意思とは関係なく、ユーゴスラビア代表への参加周囲圧力拒まれ状況出始め5月16日の対フェロー諸島最後にユーロ予選スロベニアクロアチア選手抜きで行われた。それでも、デンマークオーストリア北アイルランドフェロー諸島グループをわずか1敗で予選通過した予選通過決めた1991年10月16日時点で、既にスロベニアクロアチアマケドニア独立宣言。元々連邦内でもセルビアとは友好的だったマケドニアはともかく、スロベニア十日間戦争早期終結したものの、クロアチア紛争泥沼化様相呈しはじめ、ボスニア・ヘルツェゴビナクロアチア人ボスニア人独立宣言していた。 こうした状況の中で、ユーゴスラビア代表運命決定付ける事件1992年4月6日に起こる。ユーゴスラビア連邦軍がサラエヴォ包囲したのである。この事件2つの意味ユーゴスラビア代表運命大きく揺さぶったサラエヴォ監督イビチャ・オシム生まれ故郷だった。この問題オシムユーゴ代表監督辞任する5月22日まで、ユーゴサッカー協会大きな問題点一つとなったオシム自身も、自らの故郷砲撃している国の監督(彼はパルチザン・ベオグラード監督兼務していたが、皮肉にもここは元々ユーゴスラビア人民軍クラブだった)を務めているというジレンマ戦い続けなければならなくなったユーゴスラビア人民軍50上もの民間人(その中にはオシム妻と娘もいた)を内包したままのサラエヴォ包囲し市民多数襲撃した事によってユーゴスラビア、特にその中心占めセルビア悪玉論が国際世論の中で主流占めようになったことである。このことはユーゴスラビア代表国際試合舞台から引き摺り下ろすことになった

※この「ユーロ92に向けて」の解説は、「サッカーユーゴスラビア代表」の解説の一部です。
「ユーロ92に向けて」を含む「サッカーユーゴスラビア代表」の記事については、「サッカーユーゴスラビア代表」の概要を参照ください。

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