モータースポーツ・コンストラクターとしての成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 16:02 UTC 版)
「ジャンパオロ・ダラーラ」の記事における「モータースポーツ・コンストラクターとしての成功」の解説
やがてデ・トマソを離れ、1972年に地元パルマ県にて起業し、自動車開発メーカー『ダラーラ・アウトモビリ』を設立した。初期は国内向けの小排気量スポーツカーを発表しながら、ランチア・ストラトス(グループ4)やランチア・ベータ・モンテカルロ(グループ5)など外部企業の開発コンサルタントを請け負う。 フォーミュラカーの分野においては、デ・トマソ時代に縁のあったフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズの仕事を請け負い、F1マシンの改修に協力。後の同チーム冠名F1マシン「ウィリアムズ・FW」シリーズの誕生に貢献した。そして1978年よりF3シャーシの製造・販売市場に参入し、F3初のカーボンモノコックを開発。ラルトやレイナードとのシェア争いを経て、1990年代末にはダラーラの寡占状態を実現する。2000年代以降、フォーミュラレースで車体のワンメイク化が進行すると、GP2(→FIA F2)、GP3(→FIA F3)などの下位カテゴリーにおいて、独占供給するまでに会社を成長させた。 F1にはチーム『スクーデリア・イタリア』と提携し、1988年よりコンストラクターとして参戦。その後は、米国のインディカー・シリーズや耐久レースの分野にも供給を拡大させ、2000年代にはル・マン耐久シリーズに出場するプロジェクトを指揮。2010年代はスーパーフォーミュラやフォーミュラEへの供給も開始。さらには念願だったロードカーの開発に着手し、2017年に初の自社製市販車「ダラーラ・ストラダーレ」を発表している。 社外の役員としては、1980年代からイタリア・モータースポーツ委員会に属し、1996年に副会長に就任。1998年には、国際自動車連盟 (FIA) のイタリア代表委員に選出されている。表彰に関しても数多く、2013年には母国の栄誉「イタリア共和国功労勲章」(グランデ・ウッフィチャーレ)を受勲した。
※この「モータースポーツ・コンストラクターとしての成功」の解説は、「ジャンパオロ・ダラーラ」の解説の一部です。
「モータースポーツ・コンストラクターとしての成功」を含む「ジャンパオロ・ダラーラ」の記事については、「ジャンパオロ・ダラーラ」の概要を参照ください。
- モータースポーツ・コンストラクターとしての成功のページへのリンク