メロエへの遷都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 03:21 UTC 版)
詳細は「メロエ」を参照 アスペルタの後継者が彼らの首都をナパタよりずっとかなり南のメロエに持っていたのは記録から明らかだ。遷都の正確な日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応して、アスペルタの統治期間中だと信じている。他の歴史家達は王国を南にやったのは、鉄の鉱山の魅力だと信じている。メロエ周辺にはナパタと違って、溶鉱炉を燃やすことが出来る大きな森がある。地域のいたるところにギリシャ人商人が到達したことはまたクシュがもはやナイル沿いの交易に依存しているのではなく、むしろ製品を東の紅海へ輸出し、そしてギリシャ人が植民都市と交易していたことを意味する。 他の学説によると、クシュはナパタを本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していた。メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。 紀元前300年ごろ、王がナパタの代わりにメロエに埋葬され始めてから、メロエへの遷都はより完璧になった。ある学説はこのことは王がナパタに本拠地を置いた神官たちの権力から離れたことを表しているとする。紀元前1世紀頃の歴史家であるシケリアのディオドロスは、神官達によって自分自身を殺すよう命ぜられたが、伝統を破って神官達を代わりに死刑にさせたエルガメネス(Ergamenes)という名前のメロエの支配者について物語を語っている。ある歴史家達はエルガメネスはアラカマーニ(Arrakkamani)というメロエに埋葬された最初の支配者の事を言っているのだと考えている。しかしながらもっとありそうなことに、エルガメネスの音訳はアラカマニ(Arqamani)だ。彼は、長年統治した後王室の埋葬地をメロエに開いた人物だ。他の学説に首都は常にメロエだったというものもある。 クシュは数世紀続いたが、私達はそれに関してほとんど情報を持っていない。初期のクシュはエジプトのヒエログリフを使っていたのだが、メロエは新しい文字を発達させ、メロエ文字で文章を書き始めた。メロエ文字はいまだに完全な判読はなされていない。国は近隣国との交易や、遺跡や墓を作り続けながら繁栄し続けていたようだ。紀元前23年にローマ帝国のアエギュプトゥス総督、ガイウス・ペトロニウス・ポンティウス・ニグリナス(Gaius Petronius Pontius Nigrinus)がヌビアの南部エジプトへの攻撃に対してヌビアに侵攻した。侵攻はその地域の北部を略奪しながら、北へ帰還する前紀元前22年にナパタを負かした。
※この「メロエへの遷都」の解説は、「クシュ」の解説の一部です。
「メロエへの遷都」を含む「クシュ」の記事については、「クシュ」の概要を参照ください。
- メロエへの遷都のページへのリンク