メスタの足跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:56 UTC 版)
スペインのメディナ・デル・カンポ、ブルゴス、セゴビアでは、12世紀から英国やフランドルの羊毛商が毎年春ごろから市を開いていた。時期を合わせた移動牧羊がイベリア半島を縦断して行われた。羊の所有者たちは、牧童の雇用・賃金の設定・迷羊の帰属といった共通の問題解決を意図して組合メスタ(Mesta)をつくった。カスティーリャ王国の全羊飼いを対象に名誉あるメスタ会議が行われてからは、同国で許される牧羊の行動基準がメスタから出るようになった。 会議が行われる以前のメリノ・ウールは価格が英国種に劣後した。13-4世紀からブルターニュ・ノルマンディー等のフランス沿海諸港とスペイン北部のビスケー湾との間に海上貿易が著しく発展し、ここでメリノ・ウールが市場に頭角をあらわした。15世紀末まで、スペイン商人がナントやルーアンに定住し、比べてフランス商人がスペインへ出向くことは少ないような状態が続いた。このバランスはイタリア戦争で劇的に変化し、南部のアンダルシアがフランス・スペイン貿易の要となってユグノー商人・船舶が訪れるようになった。1521年からは交戦関係となり、フランスはスペインとの貿易にフランドルやイギリスの商人を仲介させた。1559年のカトー・カンブレジ条約が仲介を不要にし貿易が栄え、1578年から1581年にかけてセビリア・バルセロナ・カディスにフランス人領事が置かれるまでとなった。このころにオランダが独立した。オランダはスペイン領であったころから染色を得意とし、メリノ・ウールの白さがもつ真価を証明してきた。欧米両圏を市場として、メリノ・ウールは世界的なブランドになった。 17世紀末にアラゴン王国にまでメスタの基準が適用されるようになった。果樹園・葡萄園・穀物畑・牛の放牧地・刈り取り後の草地への羊群侵入は禁じられていたが、野菜園などは侵入を拒否できなかったので農民から訴訟が相次いだ。メスタは公開地や入会地でも飼育が許された。耕作地帯に82メートルの牧羊道設置が法で定められ、羊群通過中の立ち入りが禁止された。カルリスタ戦争中の1836年まで、批判されながらメスタは影響力を持ち続けた。メスタが残した牧羊道は1920年代まで使用された。 メスタは、国庫に資金を供給するため長く保護されたのである。
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