メアリーの退位と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:40 UTC 版)
「エリザベス1世」の記事における「メアリーの退位と亡命」の解説
エリザベスの最初の対スコットランド政策は駐留フランス軍への対抗であった。彼女はフランスがイングランドへ侵攻し、スコットランド女王メアリーをイングランド王位に据えようと企てることを恐れていた。エリザベスはスコットランド・プロテスタントの反乱を援助するようバーリー卿らから説得され、女王自身は消極的だったが、1559年末に出兵を認めた。イングランド軍はリース城を落とせず苦戦したが、1560年に和議が成立し(エディンバラ条約(英語版))フランスの脅威を北方から除くことができた。メアリーは条約の批准を拒否している。 1560年末にフランス王フランソワ2世が死去し、メアリーは帰国することになった。翌1561年に彼女がスコットランドへ帰国した時、国内にはプロテスタントの教会が設立され、エリザベスに支援されたプロテスタント貴族によって国政が運営されていた。 1563年、エリザベスは彼女自身の愛人ロバート・ダドリーを、本人の意思を確かめることなく、メアリーの夫に提案した。この縁談はメアリー、ダドリーともに熱心にはならず 、1565年にメアリーは自身と同じくマーガレット・テューダーの孫でイングランド王位継承権を持つ従弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚した。この結婚はメアリーの没落をもたらす一連の失策の端緒となった。 メアリーとダーンリー卿はすぐに不仲になる。そして、ダーンリー卿がメアリーの愛人と疑ったイタリア人秘書ダヴィッド・リッツィオ(英語版)が惨殺されると、彼はその関与を疑われ、スコットランド国内において急速に不人気になった。1566年6月19日、メアリーは王子ジェームズ(後のスコットランド王ジェームズ6世/イングランド王ジェームズ1世)を出産した。 1567年2月10日、ダーンリー卿が病気療養していた屋敷が爆破されて彼の絞殺死体が発見され、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンが強く疑われた。それからほどない5月15日に、メアリーはボスウェル伯と結婚し、彼女自身が夫殺しに関わっていたとの疑惑を呼び起こした。 これらの出来事はメアリーの急速な失脚とリーヴン湖城(英語版)への幽閉という事態を招く。スコットランド貴族は彼女に退位とジェームズ王子への譲位を強いた。ジェームズはプロテスタントとして育てるためにスターリング城へ移された。1568年、メアリーはリーヴン湖(英語版)から逃亡したが、戦いに敗れ、国境を越えてイングランドへ亡命した。当初、エリザベスはメアリーを復位させようと考えたが、結局、彼女と枢密院は安全策を選ぶことにした。イングランド軍とともにメアリーをスコットランドへ帰国させる、もしくはフランスやイングランド内のカトリック敵対勢力の手に渡す危険を冒すより、彼らは彼女をイングランドに抑留することにし、メアリーはこの地で19年間幽閉されることになる。
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