メアリーと陰謀事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:40 UTC 版)
「エリザベス1世」の記事における「メアリーと陰謀事件」の解説
すぐにメアリーは反乱の焦点となった。1569年、北部諸侯の反乱(英語版)の首謀者たちは彼女の解放とノーフォーク公トマス・ハワードとの婚姻を策動した。反乱は鎮圧され、エリザベスはノーフォーク公を断頭台へ送った。 1570年、ローマ教皇ピウス5世は「レグナンス・イン・エクスケルシス」と呼ばれる教皇勅書を発し、「イングランド女王を僭称し、犯罪の僕であるエリザベス」は異端であり、全ての彼女の臣下を忠誠の義務から解放すると宣言した。これによって、イングランドのカトリックはメアリー・ステュアートをイングランドの真の統治者と期待する更なる動機を持つようになった。 メアリー本人の彼女を王位に就けようとする陰謀への加担の真偽は諸説あるが、1571年のリドルフィ陰謀事件(英語版)から1586年のバビントン陰謀事件(英語版)までに、エリザベスのスパイ組織のリーダー・フランシス・ウォルシンガムと枢密院は彼女の事件について激しく論議している。当初、エリザベスは彼女の死を求める意見に反対していたが、1586年後半にはバビントン陰謀事件でのメアリーの自筆の手紙の証拠を以って彼女の裁判と処刑に同意させられた。同年11月のエリザベスの判決は「同国王位を僭称するメアリーは同国の共犯者とともに我が国王を傷つけ、殺し、破壊しようと企てた」と宣告した。 エリザベスはメアリーの死刑執行を躊躇い続け、執行状に署名した翌日でさえ国務次官ウィリアム・デヴィソンを「急ぎすぎる」と叱責している。1587年2月8日、メアリーはノーサンプトンシャーのフォザリング城(英語版)で斬首された。44歳没。 処刑が執行されるとエリザベスは廷臣たちを罵倒し、怒りの矛先を向けられた国務次官ウィリアム・デヴィソンはロンドン塔へ送られてしまう。メアリー処刑はスコットランド、フランスそしてスペインなど諸外国からの強い非難を引き起こすことになり、アルマダ海戦の原因ともなった。
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