メアリー2世の崩御後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:03 UTC 版)
「ウィリアム3世 (イングランド王)」の記事における「メアリー2世の崩御後」の解説
ロンドンはメアリー2世が留守を預かっていたが、1694年にメアリー2世は天然痘で没し、以後はウィリアム3世の単独統治となった。2人の間には子供がなかったので、イングランド王位の継承者はメアリーの妹アンと決まっていた。1697年にロシアのツァーリ・ピョートル1世がオランダを訪問、レイスウェイク条約の交渉中だったウィリアム3世はピョートル1世と会談、旅行案内を務めた。ピョートル1世は1698年にイングランドを訪問して施設を叡覧し、オーストリアへ向かった後に還御してロシアの改革に邁進することになる。 大同盟戦争が終わった後、反戦派のトーリー党が議会でホイッグ党の政府を非難、大幅な軍縮及び王室の財政と軍事費を切り離すべきとの声が上がった。ウィリアム3世は反発したが、1698年に軍縮と財政分離が議会で通り、閣僚が次々に辞任、トーリー党が議会で優位に立つと、1700年に妥協してトーリー党員も入れた政権を発足させ、1701年に王位継承法を承認するとオランダへ渡り、ハーグでオーストリア・ドイツ諸侯と対フランス同盟を結んだ。 ウィリアム3世はヨーロッパの均衡を図るため、スペイン王カルロス2世亡き後のスペイン領を誰が相続するかについてフランスと協議を行っていたが、1700年に崩御したカルロス2世の遺言でルイ14世の孫フェリペ5世がスペイン領を一括相続することになり、フランス軍がネーデルラントのオランダ軍を退去させてジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを支援する姿勢を取ると、同盟締結後に開いた議会で戦争の危機を訴え、協力を取り付けた。
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