ボリビアン・シンジケート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 14:21 UTC 版)
「アクレ紛争」の記事における「ボリビアン・シンジケート」の解説
反乱を鎮圧したボリビア政府だが、アクレ地方の治安を維持するためには、軍の駐留を続ける必要があった。少なくとも1,000名の守備隊をアクレ地方に常駐させる必要があったが、必要物資の輸送には多額の費用が必要であり、この負担は重荷であった。マヌエル・パンド大統領の政権は、アクレ地方から産出される天然ゴムの収益が国庫に入る方法を模索した。 1901年7月11日、ボリビア政府は、アメリカの投資家グループとアクレ地方への投資について「ボリビアン・シンジケート」と呼ばれる契約を交わした。ボリビアン・シンジケートは、アメリカの投資家グループにアクレ地方を信託し、ここで産出される天然ゴムの輸出を独占するのと引き換えに、ボリビア政府が利益の一部を受け取る内容だった。 ブラジルでは、パラー州の商人たちは、自分たちの利益が損なわれない限り、ボリビア政府によるアクレの統治を支持していた。その一方で、パラー州の商人を排除したいと考えていたアマゾナス州の商人たちは、アクレの反政府勢力を支持していた。従って、ブラジル政府はパラー州とアマゾナス州のそれぞれの要求のバランスをとりながら、ボリビア政府のアクレ地方の統治を支持していた。しかし、ボリビア政府がアメリカ投資団と契約すると、パラー州の商人たちはこれに強く反発、ブラジル政府もアクレ地方の反乱勢力への理解を表明し、ボリビアに契約撤回を迫った。 この頃のプエルト・アロンソは、1900年12月の反乱鎮圧後、比較的平穏な状態を維持していた。ボリビア人の軍人は、ブラジル人の入植者たちを信頼することがアクレ地方を統治する唯一の手段であることを悟っていた。しかし、マヌエル・パンド大統領は、国内の慎重意見、ブラジルの反対を抑えて、1901年12月21日、アメリカ投資団との契約についての議会承認を得た。 マヌエル・パンド大統領は、文官のリノ・ロメロ(西: Lino Romero)をアクレ地方に派遣した。リノ・ロメロは、法律家や書記官を引き連れて、1902年4月にプエルト・アロンソに到着した。 リノ・ロメロは、すぐに新しい税金を課す法令を出し、アクレ川沿いのブラジル人入植者たちに徴税官を派遣した。さらに、リノ・ロメロは、半年以内にゴム林の土地の登録に応じるようアクレの入植者に命じた。
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