ボッシュ維新政権とドミニカ内戦
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「ドミニカ共和国の歴史」の記事における「ボッシュ維新政権とドミニカ内戦」の解説
1962年、30年ぶりに大統領選挙が行われ、1963年にはドミニカ革命党のフアン・ボッシュ・ガビノが大統領に就任した。ボッシュはケネディに憧れ、改革に燃える政治家として「ボッシュ憲法」と呼ばれた1963年憲法を施行し、土地改革を含む社会改革の実践を始めようとしたが、同年ボッシュは寡頭支配層と結びついた軍事評議会のエリアス・ウェッシン・イ・ウェッシン大佐によるクーデターによって追放されてしまった。こうして軍事評議会に推薦された実業家のレイド・カブラルが新大統領になり、1963年憲法を廃止し、国会を停止した。こうした反動政治は国民の期待を大きく裏切り、ドミニカ共和国は再び不安定な状態に陥った。 しかし、1965年4月24日、立憲派(ボッシュ派)のフランシスコ・カーマニョ大佐をはじめとする陸軍軍人が中心になり、1963年憲法の復活を求めてクーデターを起こし、翌25日カブラル大統領を逮捕した。立憲派はボッシュの復帰を求めて首都サント・ドミンゴを占拠したが、地方に逃れて首都を包囲した軍事評議会のウェッシン空軍大佐との戦いが始まった。こうしてドミニカ内戦が起こり、さらに翌4月26日には、ジョンソン合衆国大統領は「合衆国市民を保護し、ドミニカを共産主義から保護するために」アメリカ海兵隊の投入を決定した。4月27日に立憲派は首都の市民に武器を引き渡し、抵抗する構えを見せるが、翌28日に海兵隊が40年ぶりにドミニカに上陸。29日にはラテンアメリカ諸国の抗議も虚しく 第82空挺師団が降下した。4月30日に国連の調停でガルシア・ゴドイ統一暫定政権が成立し、ブラジル軍を中心する米州平和軍(その他にはホンジュラス軍、アルフレド・ストロエスネル政権のパラグアイ軍、ソモサ王朝のニカラグア国家警備隊、軍隊を持たないコスタ・リカからは警察隊など)が治安維持部隊として派遣され、最終的に海兵隊は35,000人に増派され、立憲派軍を鎮圧した(パワー・バック作戦)。こうして首都だけで4000人の死者を出してようやく内戦は終結した。
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