ベルギー国王への推戴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 06:39 UTC 版)
「レオポルド1世 (ベルギー王)」の記事における「ベルギー国王への推戴」の解説
「ベルギー独立革命」および「十日戦争」も参照 1815年のウィーン会議の結果、低地諸国(ネーデルラント)はネーデルラント連合王国に再編され、オラニエ公ウィレム6世が「ウィレム1世」として国王に推戴された。オランダはベルギーに相当する南ネーデルラントを手に入れ、五大国にとってはフランスとの緩衝地帯となった。ウィレム1世は、オランダ語を重視する政策を取ったため、フランス語を母語とする南部ワロン地域の人々や、フランス語に慣れた北部フランデレン地域の上流階級の人々から強い反発を受けた。特に、当時は南部の方が経済及び人口が北部より優位であった。1830年のフランス7月革命の影響を受け、不満が一気に噴出し、同年8月の暴動に端を発し、10月にはベルギー臨時政府(英語版)が独立を宣言する。 ウィレム1世は、母がプロイセン王女ウィルヘルミナ、嫁(息子ウィレム2世の妃)はロシア大公女アンナ・パヴロヴナだったため、両国に助力を求めた。ウィレム1世と臨時政府首班のシャルル・ロジェ(英語版)の要請により、中立的な英国の仲介により、ロンドン会議が開催され、その結果ベルギーの独立が承認された。当時は君主国が一般的であり、ベルギー国王を誰にするかが問題となった。ベルギー国民会議(英語版)はヌムール公ルイ王子(フランス王ルイ・フィリップの次男)を希望したが、英国の強い反対により承認されなかった。英国首相グレイ伯爵はレオポルドと長年の友人であったため、グレイが英国にゆかりがあり、かつドイツ系(=フランス系ではない)のレオポルドを国王に強く推した。 1831年6月、会議はレオポルドを国王に推挙し、国民議会もそれを受け入れた。同年7月21日にブリュッセルの王宮で初代ベルギー国王に即位した。そもそも、レオポルドはシャーロット王女との結婚や、1819年生まれのヴィクトリア王女(英国王位の推定相続人)の叔父でもあることから、英国に近しかった。そのため、ウィレム1世の反発は強く十日戦争が勃発し、レオポルド1世が英仏への救援を求めて蘭軍を撤退させた。
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