ヘッセン・カッセル方伯の御用商
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「ロスチャイルド家」の記事における「ヘッセン・カッセル方伯の御用商」の解説
ロスチャイルド家を勃興させたのはマイアー・ロートシルト(1744-1812年)である。彼は1760年代からフランクフルトで古銭商を始め、やがてフランクフルト近くのハーナウの宮殿の主であるヘッセン=カッセル方伯家嫡男ヴィルヘルムを顧客に獲得し、1769年にはその宮廷御用商に任じられた。ヴィルヘルムは閨閥の広さによる資金力を活かし、他の王侯ならびに軍人・官吏・各種産業に貸し付けていた。 ヴィルヘルムは領内の若者を傭兵として鍛え上げ、植民地戦争の兵員を求めるイギリスに貸し出す傭兵業を営んでおり、その傭兵業の儲けでヨーロッパ随一の金持ちになっていた。ヴィルヘルムがイギリスへ傭兵を貸し付けた植民地戦争に、アメリカ独立戦争もあった。貸し付けた傭兵が死亡したり、負傷したりしたとき、ヴィルヘルムは高額な補償金をせしめた。小規模ながら両替商を兼業するようになっていたマイアーもヴィルヘルムの傭兵業に関わらせてもらい、イギリスで振り出された為替手形の一部を割引(現金化)する仕事を任されるようになった。とはいえマイアーの担当額はわずかであった。ヴィルヘルムとしては交換比率が下がらないようなるべく多くの業者に自分の外国為替手形を扱わせたがっており、その一人がマイアーだったということに過ぎない。マイアーは基本的に1780年代末まで注目されるような人物ではなく、ヴィルヘルムにとってはもちろん、フランクフルト・ゲットーの中においてさえそれほど有名人ではなかった。しかも1785年にはヴィルヘルムがヘッセン・カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となり、フランクフルトから離れたカッセルのヴィルヘルムスヘーエ城(ドイツ語版)に移ってしまったため、一時マイアーとヴィルヘルム9世の関係が疎遠になるという危機も起こった。 一方、物品商の仕事の方はフランクフルトがイギリスの植民地産品や工業製品を集める一大集散地になっていたこともあって順調に推移し、1780年代にはマイアーはかなりの成功を収めていた。 やがてマイアーの息子たちが成長して父の仕事を手伝うようになり、長男のアムシェルと二男のザロモンがヴィルヘルムスヘーエ城に頻繁に出入りするようになった。彼らはヴィルヘルム9世の宮廷の正規の金融機関であるベートマン家(ドイツ語版)(アムロ銀行#概要を参照されたい)やリュッペル・ウント・ハルニエル(Rüppell und Harnier)などの大銀行を回って、彼らと気難しいヴィルヘルム9世の間の使者の役割を演じ、ヴィルヘルム9世から気に入られるようになった。そして1789年にはロスチャイルド家もヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名されるに至り、その対外借款の仕事に携われるようになった。1795年頃からヴィルヘルム9世の大きな投資事業にも参加できる立場になる。 こうしてロスチャイルド家は1790年代に急速に躍進した。その頃にはロートシルト家の収入は信用供与と貸付が主となっており、商人というより銀行家に転じていた。その活動範囲もドイツに留まらず、ヨーロッパ中へと広がっていった。
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