ヘッセン大公妃
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「ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ」の記事における「ヘッセン大公妃」の解説
1894年4月、祖母ヴィクトリア女王の強力な勧めで、父方の従兄にあたるヘッセン大公世子エルンスト・ルートヴィヒと結婚した。翌年5月に長女エリーザベトを生み、1900年には男児を死産した。 傍目には幸せに見えた大公夫妻だったが、妻に対する愛情が欠落しているエルンスト・ルートヴィヒとの生活は不幸だった。2人は茶器や磁器を投げ合うような派手な夫婦喧嘩をした。原因は、エルンスト・ルートヴィヒの男性関係だった。彼は同性愛者で、ヴィクトリアがルーマニア王妃である姉マリーに会うため宮廷を開けると、男の使用人を自室へ連れ込むような不貞をはたらいていた。ヴィクトリアの慰めは、愛馬で野山を駆ることや、少女時代にロシアで出会った母方の従兄キリルの存在だった。ヘッセン大公夫妻の離婚問題が表面化すると、夫妻の共通の祖母であるヴィクトリア女王は孫たちの離婚を頑として認めなかった。しかし、女王が亡くなった後の1901年に2人は正式に離婚。長女エリーザベトをヘッセンに残し、ヴィクトリアは母マリアのリヴィエラ海岸の別荘へ移った。 エリーザベトは、1年のうち半年ずつ父母と暮らすことになった。彼女は、離婚を悲しんで母を責めた。母親に捨てられたと考えて泣き、これからヴィクトリアに会いに行くという時に、ソファの下に潜り込んでむせび泣いたこともあったという。1903年11月、エリーザベトは、ニコライ2世一家とともにポーランドで休暇を楽しんでいたが、腸チフスで急死した。医師はエリーザベトの重病を早く母親に電報で知らせた方がいいと言ったが、皇后アレクサンドラ(エルンスト・ルートヴィヒの妹)がわざと電報を遅らせたため、ヴィクトリアはポーランドでの休暇に合流しようと準備していた自室で、娘の死を伝える電報を受け取った。エリーザベトの葬儀では、ヘッセン大公家の列からヴィクトリアははずされた。棺のそばで悲嘆に暮れるヴィクトリアを、参列したベルンハルト・フォン・ビューロー伯(のちのドイツ帝国宰相)は「メロドラマのつもりか」と辛辣に評した。
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