プロヴィデンス号の航海
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「ウィリアム・ロバート・ブロートン」の記事における「プロヴィデンス号の航海」の解説
1793年10月に就任したプロヴィデンス号(en:HMS Providence (1791))艦長として、バンクーバー遠征隊支援と北大西洋調査を命じられ、1795年に出帆した。 12月16日にキリバスのカロリン島を再発見し、翌年バンクーバー島を再訪、調査する。遠征隊支援を終え、太平洋を横断して黄海に入り、イギリス人として初めて朝鮮半島沿岸を航海する。さらに北上してヨーロッパの地図上で空白地帯だった、揚子江から樺太(サハリン)、北海道沿岸と千島列島の測量調査を行った。 1796年(寛政8年)8月に内浦湾(噴火湾)に面する洞爺湖町虻田で日本初上陸を果たし、9月には室蘭に寄港して、船体の修理を行っている。冬を越すために12月マカオへ寄港する。 厳しい北太平洋の調査に僚船の必要性を感じ、スクーナープリンス・ウイリアム・ヘンリー号を買って2隻でマカオを出航するが、直後の1797年5月16日、プロヴィデンス号は宮古島(池間島)沖の八重干瀬で座礁、沈没してしまう(帰国後出版し評判となった航海記には、この時宮古島の住人に手厚く助けられた感謝の念が記され、イギリス人の対日観に影響を与えたとの見方がある)。 いったんマカオに戻った後、彼は残ったスクーナーで探検航海を再開する決断をする。那覇港に寄った後、太平洋岸を北上(房総沖で江戸湾を確認)し、仙台や箱館を訪問するが松前藩には歓迎されず、そのまま日本海へ抜けている。なお、松前藩側の記録によれば、当時、松前藩側に英語を理解できる者がおらず、両者が片言のロシア語を駆使して、辛うじてイギリスの探検船であることが理解できた程度であったという。 1798年5月、セイロン島で船を降り、翌年本国に帰国した。
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