プロレスデビュー以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:16 UTC 版)
建築業の長男で、秩父市立影森中学校時代は走り高跳び・砲丸投げ・野球(投手や外野手)・柔道など様々なスポーツで活躍した。卒業後は埼玉県立秩父農工高等学校の定時制に通いながら自動車整備の職に就いたが、相撲部顧問の熱心な勧めで「野球だと余程強いチームじゃないと全国大会に出られないけど、相撲だと出られる可能性が高いし、あちこちに行ける」と思って相撲部に入部し、2年生の時に全国高等学校相撲選手権大会で3位に入賞した。1年生の秋に押尾川部屋で合宿して勧誘されていて「高校だけは卒業したい」と断っていたが、熱心な勧誘と母の勧めで入門を決意し、3年生の3学期に入門した。1980年1月場所に本名の「田上」の四股名で初土俵を踏んだ。1986年5月場所に十両に昇進し、本名の田上から玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)と改名した。なお、下の名である安正は田上の高校時代の恩師の名に因む。新十両の場所は7勝8敗と負け越し、幕下へ陥落。四股名も本名の田上に戻している。しかし、1場所で十両に復帰してからは、四股名を再び玉麒麟と名乗っていた。 右四つの型に填れば抜群の力を発揮し、十両でも安定した成績を残し幕内昇進も期待されたが、師匠・押尾川親方(元大関・大麒麟)との確執もあり、3場所連続で負け越したあとの(ちょうど同部屋・同年力士の益荒雄による、いわゆる「益荒雄旋風」の最中であった)1987年7月場所前に廃業した。 その後、知り合いだった落語家の三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭圓楽)の勧めもあり、プロレスラーに転身した。楽太郎は天龍源一郎の中学時代の同級生で、その伝手で全日本プロレスの入団が決まったという。
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