プロスキーヤーとして
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1960年代始め頃からスキー学校を開設し、1962年、アメリカ合衆国でスタートしたばかりの世界プロスキー選手権に参加、トニー・ザイラーら冬季オリンピックの元メダリストも名を連ねる大会で世界ランク8位となるなど、プロスキーヤーとして活躍、1964年7月イタリアで開催されたキロメーターランセに日本人で初めて参加、時速172.084キロの当時世界新記録を樹立(なお、この前後に3度転倒し、「世界で最も速い速度で転倒して無傷で生還する」という珍記録も樹立している)。なおこれに先立ち、防衛庁(現・防衛省)航空研究所の風洞実験室を使用し、空気抵抗の少ないスキーウェア開発も試みている。 1966年4月、富士山での直滑降を成功させる。この時ブレーキとしてパラシュートを使用した映像から、後にパラグライダーが開発されたという。 1970年5月にはエベレストのサウスコル8000m地点からの滑降(ギネスブックに掲載)を成功させ、その映像が『The Man Who Skied Down Everest』(「エベレストを滑った男」)というタイトルでドキュメンタリー映画化され、アカデミー賞記録映画部門で賞を獲得した。最終的に、1985年に54歳で南アメリカ大陸最高峰アコンカグアからの滑降を成功させたことにより、世界七大陸最高峰全峰からの滑降を成功させた(頂上からの滑降ではない)。 1971年スポーツ英雄大賞(スペイン)、1975年に米アカデミー賞(長編記録映画部門)=「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST」。
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