プッリャの首長国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:50 UTC 版)
「イタリアのイスラム教」の記事における「プッリャの首長国」の解説
ムスリムたちは、シチリア島からイタリア本土への攻撃を行い、カラブリアを侵略した。835年と837年に、ナポリ公はベネヴェント公と戦い、シチリア島のムスリムに助けを求めた。840年、ターラントとバーリはムスリムの手に落ち、841年にはブリンディジが征服され、カプアは破壊された。当時フランク人の庇護下にあったベネヴェントは840年から847年まで占領され、851年から852年の間に再度占領された。843年、846年、849年のムスリムたちによるローマへの攻撃は失敗に終わった。847年、ターラント、バーリ、ブリンディジはアグラブ朝から独立した首長国となることを宣言した。数十年の間、ムスリムたちは地中海を支配し、イタリアの港湾都市に攻撃を加えた。ムスリムは868年から870年までの間シチリア島のラグーザを占拠した。 870年にマルタが陥落してようやく、カトリック教会のキリスト教徒はムスリムと戦うことのできる軍隊を設立した。続く約20年間は、本島の大部分がキリスト教徒の支配下に置かれた。イタリア王国国王ロドヴィコ2世はブリンディジを征服し871年にはバーリでアラブ人を破ったが、その後アグラブ朝により捕虜にされた。捕虜となったルイ2世に代わり、ビザンティン帝国が880年にターラントを征服した。カラブリアのサンタ・セヴェリナ・クロトーネなど、南部にあった少数のムスリムの拠点は885年まで存続した。882年、ムスリムはさらに北進して新たな拠点をナポリとローマの間にあるガリリャーノ川の河口に設立し、ガエータと同盟を結び、カンパニアやラツィオのサビーナを攻撃した。約100年後、ビザンティンは神聖ローマ帝国皇帝オットー2世と戦うためシチリア島のムスリムに支援を求めた。シチリア島のムスリムは982年にクロトーネの戦いにおいて、ターラントでオットー2世を破り、この後200年間、後継の神聖ローマ皇帝によるイタリア南部への侵入を防ぐことにほぼ成功した。 1002年、バーリは再びムスリムの支配下に置かれたが、すぐにビザンティンにより奪回された。アグラブ朝がイフリーキヤでも敗退した後、シチリア島は10世紀に後継政権となったファーティマ朝による支配を受けたが、カルブ朝(英語版)の下でのスンナ派とシーア派による争いの後独立を宣言した。
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