プィリャーウツィの戦い
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「フメリニツキーの乱」の記事における「プィリャーウツィの戦い」の解説
詳細は「プィリャーウツィの戦い」を参照 コールスニの戦いが始まる直前、1648年5月20日にポーランド・リトアニア共和国の国王ヴワディスワフ4世が崩御した。君主と在ウクライナ官軍を失ったポーランド政府はコサックと和平交渉を開始する一方で、急いで全国の貴族の私兵部隊を動員しはじめた。9月上旬に交渉が打ち切られ、新たに集められた騎兵隊を中心とした4万人の官軍と、銃兵隊を中心とした6万人のコサック軍が再び互いに勝負を挑んだ。コサックを見下している軍人が多かったことから、官軍内には楽観的な雰囲気が漂っていた。9月21日に両軍はプィリャーウツィ村辺りで対陣し、9月23日に合戦の火蓋が切られた。最初、官軍の騎兵隊がコサックの陣地を襲ったが、鉄砲と砲兵の射撃の前で撤退を余儀なくされた。その隙にコサックの歩兵は防戦から反撃に転じ、敵の歩兵を全滅させた後、官軍の本陣に近づいた。そんな中、官軍の司令官と長官たちが合議した上で敗走し、それを知った他の貴族と従者は恐怖に陥って、武器・軍旗・兵糧・宝物を捨てて逃げ去った。コサックの手には800万枚の金銭に値する戦利品が入った。 三連勝したコサック軍はタタールの援軍に伴われて1648年10月に西ウクライナのヴォルィーニとガリツィア地方へ乱入し、最大の都市リヴィウを包囲した。包囲は三週間続いたが、市民は代償金として120万枚の金銭をコサックへ支払った。その他の地域では、コサックの軍事成功を背景に庶民が蜂起し、宗教や民族などを問わず貴族や管理者を虐殺していた。 1648年11月にコサック・タタール連合軍はポーランドの本土に攻め入り、ザモシチ市を取り巻いた。ポーランドの首都、ワルシャワが危険に晒されている中、ヤン2世が新たな国王として選ばれ、ザモシチが陥落する寸前に政府はフメリニツキーとの和平交渉を再開した。コサック軍は、ポーランドに侵攻して優勢であったものの寒さ・疫病・糧食不足などに悩まされており、交渉に応じた。フメリニツキーの要求は、反乱者全員の大赦、登録コサックの人数の増加、ウクライナにおけるコサックの内政自治権の回復、コサック海賊行動禁止令の取り消し、コサック領内でポーランド・リトアニア共和国の官軍の駐在禁などであった。11月23日、ポーランド・リトアニア共和国の政府が一時的にフメリニツキーの要求に応じて休戦協定を結んだので、フメリニツキーはコサック・タタール連合軍を引き連れてウクライナへ帰陣した。
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